無住の地の探し方
先程の記事では、どうしようもないという結論にしかならなかったので、凡人なりに「競合者のいないすごい場所」の探し方でも考えてみましょう。
「競合者のいないすごい場所」というのは見つけるのが大変ですが、「競合者のいない場所」についてはそれ程難しくないかもしれません。既存の話を複数読んだ上で、「この話ではやってないこと」を列挙していけばある程度近づける気がします。何だか理工系での研究みたい*1な感じですけど。
とは言え、既存の話を山のように読むのは骨が折れるわ迂闊に読むと影響されるわで中々難しいものです。まぁ、それくらいは物書きやろうと思った時点である程度済ませておけ、というのは御尤もではあるのも確かです*2が。
そんな訳で別法を考えましょう。先程問題点は「評価される作品が作りたい」から漠然と出発するのが問題だったようです。これを具体化してみれば良いのかもしれません。
- 誰に評価されたいか
- どう評価されたいか*3
- 評価には何が必要か
- etc...
何だかやはり研究やってるような感じです。最近研究やってばかりなので発想がそっち方向に固定されてるのかもしれません。まぁ、案外論文書くのも話書くのも似たようなものなのかもしれないですね。まぁ、論文書くときの方については文章作法がある程度確立されてる点は違うところかもしれません。論文の作法とかデッサンの技法とかは本だってあるのに、お話についてのHowTo本では「過去の名作を読みましょう」で大概終わってるのはどうなのでしょうか。
いい加減誰かお話に特化した作文技法について纏めても良いと思うんですけど。論文とかの作文技術みたいに「どうすれば理解しやすい文章になるか」だけではなくて、「この表現でどんな効果が狙えるか」みたいなものとか。多分需要はあると思うんですが、どうなんでしょう?
平凡なものは難しい
競合がたくさんひしめく場所では、そもそも単体としての「すごさ」なんて、数に隠れて目立たない。平凡であっても、たくさんのプロダクトを生み出して、自分の居場所を「ここ」と宣言しない限りは、その人の「すごさ」は伝わらない。
世の中にある「すごいもの」というのは、「たくさんの平凡」を生産している人が、たまたま作った質の高いものでなければ、たぶん「競合者のいないすごい場所」で初めて生み出された、「平凡なもの」なんだと思う。
引用は私の恣意がかなり入っているので各自オリジナルを参照していただければと思います。大昔から話書いたりあれこれやろうとしてはしくじってる身としては色々つまされる話です。
プロダクトを話に限定しても、平凡なものってのはやはり難しいのです。あと、たくさん作る事だってそれ自体非凡なことじゃないかなと思います。…いや、寧ろ平凡な話を書くのは難しいものなのですが。
「競合者のいないすごい場所」を見つけられるならそれに越したことはない*1のですが、それが誰にでも出来るなら苦労はしません。
てな訳で、平凡な人間として平凡に考えて平凡な話を書くとしましょう。
とは言え、平凡なものって難しいのです。平凡だけに飽きられやすいですし、飽きられないためにはそれこそ工夫が必要です。まぁ、だからこそ描写だとか空気の作り方だとかキャラクタの掘り下げ方とか凄い勉強になるのも確かなのですが。丁度絵画におけるデッサンみたいなものかもしれません。要するに、抽象画とか現代アートだとか印象派だとか御託並べずに、いいからお前はデッサンしてろよ って話ですかね。或いはいいから鉄砲が当たるまで撃ってろ ってことなのかもしれません。
とは言え、人間そんなに無心に打ち込める高尚な人ばかりじゃありません。手持ちの手札で今すぐ評価されたいとか、そんな邪念は簡単に入ってくるのです。と言うか少なくとも私はそんな人種の側です。平凡な(ともすれば出来の悪い)作品を量産して「駄作作ってんじゃねーよ」とか延々詰られ続けるとか非常に勘弁していただきたいものです。
となると、手持ちの手札で「おーすげー」となるような物を書こうとするわけですが、当然そんな思考に入り込む同業他社はそれこそ山の如しです*2。と言うか物書きなんて自分をエキセントリックな存在と「思いたい」人種*3なので、出力もそれを偽装してしまうのです。で、出てくる結果は…典型的な痛い話となる訳です。中身もないのに個性を主張する人間は、悲しいかなどう足掻いても没個性的な結論に落ち着いてしまうのでしょう。
…と、困ったことに凡百には凡百に収まるだけの理由があるね、ということを再確認するだけになってしまいました。老子じゃないですが、「将に之を奪わんと欲すれば 必ず固く之に与う」としなくてはならない訳ですね。投機で儲けるためには金への欲望を捨てろとか、そんな格言に近しい気がします。
お説御尤もではあるのですが、中々難しいものです。
不調
消化器系の不調と思しき体調不良が続いてます。
何もやる気が起きない訳でもないのですが、体力が追いつかず何も出来てない感じです。ま、言い訳万歳といわれればそれまでかもしれませんが。
此処暫くずっと自我がどうだ自由意志がどうだと書いてみてました。書き易いのは確かなのですが、どうにも筆が乗らない感覚を実感してます。多分私にとって政治的な問題がどうでもよくなった*1のと同じく、自我自意識についてもどうでも良くなってしまっているみたいです。
人生の目的がどうこうもそうだった感があるのですが、どうやら私にとっては本質的な関心事ではなく道具立ての一種のようです。
*1:正確には政治的な言説を公開することがどうでも良くなった と言うべきかも。
決定論者の戯言
回答者の内訳を見るとちょっと面白かったです。「しないと思う」割合は、男性より女性のほうが多く、また年齢が若いほど多くなる傾向が伺えます。俗っぽい見方をするなら、そういう人たちのほうが生きる上でより不自由さを感じているのかもしれません。逆に年を経た男性は、自分の力で世を渡ってきたんだぜーみたいな。「その他」の人がどういう答えを持っていたのかも気になりますね。誰もコメントを書いてはくれませんでしたけれど(笑)。
そういえばこのアンケートに回答したことを思い出し、コメントでも書いておけばよかったと思ってみる。因みに自由意志は存在しないと回答しました。
自分の力で人生渡ってきたんだぜーみたいな、と言うのは逆に自分の力で人生渡ってきたと信じたくて仕方ない と読み替えられなくもなし。恋愛してる人は恋愛を人生の一大事だと言うだろうし、仕事してる人は仕事を人生の一大事だと言うだろうし、勉強してる人は勉強を人生の一大事だと言うだろうというのと同じくらいのことです ハイ。自由意志だと信じて行動してきた人達は自由意志は存在すると言い張るだろうし、自由意志なんてありはしないと信じて行動してきた人達は自由意志は存在しないと言い張るだけのことです。
で、何故に自由意志は存在しないと回答したかと言えば、人生の自由度とかは余り関係ありません。どちらかと言えば決定論者なので、世界がそういうものだから人間もそういうものだろうという認識です。自由落下を自由と言うなら自由意志もあるだろうね くらいのスタンスです。私たちの意識なんて所詮CPUで言ってしまえばスケジューラとかその辺相当なのです。スケジューラが「俺って演算機の本体じゃね?」と、勘違いしてるだけなのです。ついでに言えば、そのCPUにデータを流し込んでるのは、多分世界なのでしょう。
ただ、近代的な法制度とか社会制度とかは自由意志があること前提に作られているので、これ大っぴらに否定すると色々問題ある気がするのですが…その辺の折り合いについては良い考えがありません。何か思いついたら書くとしましょう。
何とか生きてる今日この頃
日曜は朝から何故か外出できないレベルにお腹を壊してしまい、うんうん唸りつつ寝たり起きたりを繰り返してました。今も苦しんでます。
研究室の中間報告あるのにこんな状態で大丈夫なんだろうかなぁ…。