「自分の頭で考える」を考える

なんで皆、安易に普遍や絶対を求めるのかという
そんな話になったおり、取りあえず保留を覚え
心に棚を作るって事は重要な話ですわなぁ・・・などと

私的・林檎もぎれビーム解題 -坊主めくり-

引用をひいときながら、まずは恐らく本題と違うことを語ってみます。

「普遍や絶対を求めること」に保留を挟む、と言うのは非常に難しいものです。そもそも「普遍や絶対を求めるのは危険」という判断でさえ、普遍やら絶対やらを含んでるのです。

また、「真理なんて無い」という言説が仮に真理だとしたら、「真理なんて無い」という言説そのものも真理でないことになり… と、自己言及のパラドクスに陥ってしまいます。

私たちは思考を言語ベースでやってる時点で意味の絶対性を暗黙のうちに求めていますし、解釈の普遍性を当然のように求めています。丁度数学で、「今回はこんな公理を前提に話を進めるよ。今回の話の中では公理は絶対 という前提だよ」と話をするようなものです。もしそうしなければ、言葉の意味とか解釈といったものが二転三転してしまい訳がわからなくなるので、取り敢えず絶対のものとして進めざるを得ない訳です。

既にこの時点で、普遍や絶対を求めることは根本的には無理だということが判ります。なので各自都合の良いように足場を構築して、都合の良いようにロジックを展開する訳です。

さて、こんな話は科学やら宗教やらの限界が顕わになってしまった昨今では哲学界隈やら宗教界隈やらでは割と有り触れた話題で、概ね三つの論理展開があるように思います。

一つ目は、「皆そんなことも気付いてないんだぜ? 気付ける俺って凄いだろ」というロジック。聞いてて頭悪い発言に聞こえるかもしれませんが、70-80年代の私小説なんかでは割と多い論理展開だったのです。要するにそれが知性の最前線だと嘯かれていた時代もあった と。正直良い歳こいてその論理展開はお寒いので控えたいところです。

二つ目は、「何が正しいか判らなくなったとき最後に頼りになるのは自分の知性である。よって普段より備えとして…」というロジック。どちらかと言えばロジックと言うより精神論ですが、それなりに支持層が居るのも確かです。

三つ目は、「何が正しいか判らないから、自分の頭で考えることは大事だよね」というロジック。絶対的な真理なんて無いんだから、自分の足で立って自分の頭で考えないと といった論旨になるでしょうか。昨今の感覚だと一番スタンダードな見解なのではないかと思います。

さて、上記三つの見解、どれも全て暗黙の前提として「私たちは自ら考えることが出来る」と主張していることには変わりません。「私たちは考えなくても良い」とロジックを説くことも普通ありません。同様に、「私たちはそもそも自ら考えることなど到底出来はしない」というロジックを説くことも、同様に普通はありません。

と言うのも、それはある意味仕方の無いことなのです。

何せ良識があるなら、そう言わないといけないことになってるのですから。倫理を語るに際して、自殺や殺人を積極的に肯定できないのと同じようなものです。仮に良識がなかったとしても、「お前の言うに勧められて殺人をしたのだ」などとやられては下手をすれば身が危うくなってしまいかねません。近代社会は自由意志を前提にした要素をクリティカルな部分に含む社会制度ですから、思考するな、丸呑みで良いのだ 或いは、そもそも自分自身で思考することなど土台出来ないのだ などとは土台言えないし言ってはいけないのです。

「いや、そもそも私たちは自分で考えることをしているのだろうか? 請売りではあるまいか?」といった議論で疑義を挟むことはあったとしても、それは「私たちは本来的には自分で考えることが出来るに違いない」という暗黙の了解があればこそなのです。そうでなければ、「自分で考えることが本質的に無理なのに、何故そのような疑義を挟まなくてはならないのか?」という反論が成立してしまい議論が破綻してしまいます。

では実際のところはどうなのか、というのは私には判りかねます。私個人としては自由意志なんてありはしないんじゃないか と勝手に信じてるのですが、割とどうでも良いことです。そのうち自由意志の存在が科学的に示されるかもしれませんし、そうでないかもしれません。

話題の一貫性を考えれば自由意志の存在云々は言い出しても仕方ないので、自由意志はあるものとして話を元に戻しましょう。

まーでも、良いじゃないですか。「満足した豚よりは、満足しない人間である方がよい。満足した馬鹿より、満足しないソクラテスである方がよい」等と何方か言っておりましたが、満足した愚か者で居ることが幸福であるならそれも良いではないですか。

踊る阿呆に見る阿呆と言いますが、踊りもせずに難癖つけるだけに精を出しても仕方なく、祭りの終わりはもう迫っているのです。


君が想うそのままのこと歌うだれか見つけても
すぐに恋に落ちては駄目さ
お仕事でやってるだけかもよ

君の孤独分かってるよな凄い話に出会っても
すぐに神と思っちゃ駄目さ
マニュアルで嵌めてるだけかもよ
*1


これは本当に大事な部分でして
16の年から、仏教に足を突っ込んで20年
宗教関係の良かれ悪しかれ
そろそろ口に出来るかなという位には
業界を見聞きし、馬齢を重ねたワケでございます

私的・林檎もぎれビーム解題 -坊主めくり-

程度問題ですが、結構じゃないですか。

歌う誰かが何考えていようが、マニュアル語る誰かが何考えて手薬煉引いてようが、知ったことではないではないですか。そもそも飛びつくときを考えて下さい。実際飛びつく相手のことなんて知ったことではなくはありませんか?

歌う誰かや語る誰かに一番重要なのは、「彼が何物か」でも「彼が何を意図しているか」でもなく「彼がどれだけ私に奉仕してくれるかどうか」ではなかったでしょうか? 彼は私のために歌ってくれるから素晴らしい、彼は私の為に語ってくれるから素晴らしい と。

私たちは望んで騙されましたし、望んで騙され続けていたい訳です。だからこそ、それが崩壊したとき「騙された!」と言って憤慨してしまうのです。それ程に都合の良いことを信じていたいのです。

無理に自由であろうとしようとして、外し方も分からないのに見えもしない操り糸を探すのは疲れるものです。無為自然 と言う訳でもないですが、繰られる糸に任せてるにしてもどう踊るか、それこそ重要ではないのかと私は考えてしまうのです。

*1:斜体部分は元記事による引用。引用元:大槻ケンヂと絶望少女達『リンゴもぎれビーム!』