「動物化」ではなくトレードオフだと思う

動物化 と言う哲学用語があります。

東 浩紀さんが持ち出した用語で、大体以下のような用語であると私は解釈しました。はてなキーワードの方が正確な可能性が非常に高いので、そちらも併せて理解を。

改めてみると、タイトルからかなりすっ飛ばしてます。はい。現役哲学者に喧嘩売ってますね。ある意味。

動物化

人間と動物の差異を人間が「欲求」だけでなく「欲望」を持つ事と定義したとき、人間が「欲望」ではなく「欲求」をひたすら満たす事で「欲望」の充足をスキップする現象。人間が動物との差異を放棄する為動物化 と呼ぶ。

「欲求」が他者の存在無しに充足されるものであるのに対して、「欲望」は他者無しには満たされるもので無い渇望である。

まぁ、要するに消費社会になってしまった為に所謂「欲望」と「欲求」がトレードオフ可能になった産物の事を指しているのでしょう。非常に現代的な現象だと思います。

しかし、個人的には「欲望」と「欲求」の間に動物と人間を峻別させるだけの差異があるのか? と言われれば疑問を感じ得ないですし、欲望と言うのは単に欲求の一変形であるのではないか とも思うのです。

以下、小分けにしながら書いてみます。

1.人間と動物との差異って何だろう?

何より動物⇔人間って対比構造は、その他大勢の動物と人間が一線を画す存在であるという主張が暗にあるわけですから(要するに人間を他の動物の上位においている)。そもそも人間と動物に明確な差異があるなんてのは人間の勝手な認識であって(まぁ、実用上の問題もありますが)、機能的にそれ程の差異があるとは思えない。

他の多くの動物にも目があり耳があり手足がある。日常的に とは言え無いものの二足歩行を可能にしている動物とて居なくは無いし、道具を使う動物も居なくは無い。

知性は? と言われるかもしれないが、それを言い始めたら私達は既に「僅かながら知的な」計算機と機械とに囲まれて生活している訳で、動物と言う枠で考えないならば何も知性は特殊なことでも無い。自発的な思考は現在の計算機には不可能であるが、それは実用上そう合っては困ると言う事情(PCに「自主的に」データ消去されたらたまりません)があったり、自発的な思考を再現するには何が必要か に関する知見が不足していたり演算能力上の制限があったりするので今後これらの問題が解決されれば知的な計算機とて生み出され得るのではなかろうか と思われる。まぁ、あとは、宇宙人いるかもしれないですし。可能性ですが。


-----------蛇足開始-----------


あと、進化論上でゴキブリが3億年ほど基本構成が変化していないと言う点を挙げてゴキブリは下等な生物である とか論ずる(高等下等で生物を論じるって意味で)御仁も居ますがアレは間違いです。

ゴキブリの形態は、あれはあれである意味洗練された形なのです。勿論、ある意味でです。虫系は見てると生理的に寒気がする人なので正直あんなもの誉めそやすのもアレなのですが、人間みたいにあーでもないこーでもないと形質的に試行錯誤が必要なほど不安定ではないのですから、洗練されていると言っていいと思います。まぁ、単純に進化のベクトルが違うとも言いますが。


-----------蛇足終了-----------

ま、そんな訳で人間様も「その他大勢」の一員である事には変わりなく、人間⇔その他大勢→人間の特性を喪失する→その他大勢への転落 と言う構図は人間の思い上がりに過ぎんだろう と、そう思うのです。

2.欲望は欲求と異なるのか?

私の見解としては、欲望は他者を必要とするものの 実際には必要としているのは他者としての他者ではなくブラックボックスとしての他者なのではなかろうか? と考える。

ブラックボックス云々については6月26日付の記事「パッケージ化される社会」でも読んで頂くとして、要するは「他者」なるブラックボックスを所定の手順を用いて操作して(過程も多分大事だろう。これに関しては否定しない)、望む出力を得ることが「欲望」の実体であり、それは他の「欲求」と実質的・手順的な差異は殆ど無いのではないだろうか? と思う次第なのです。

具体性が皆無なので解りにくいと思うので例示しますと、例えば褒められたいという欲望を持つとき、勿論その欲望を充足する為には欲望を充足させてくれる何らかの他者が必要になります。要するに褒めてくれる人 のことですね。

さて、ここで褒めてくれる人 と言うのを断り無く「人」と言いましたが例えば「おめでとう!」とメッセージを返すプログラム(まぁ、ゲームのクリアメッセージみたいなものか)のようなものを 褒めてくれる人 に設定する事は不可能ではないでしょう。結局、人から「おめでとう!」と言われるのとディスプレーに「おめでとう!」と表示されるのとの違いがあるものの一応に褒められる と言う目的は達せられる訳ですから。勿論、ディスプレーが無味乾燥だとか、機械に褒められても嬉しくねーよ とかいった問題はありうる話です。

ま、そんな訳で多少苦しいですが、対象の「リアルさ」を抜きにすれば他者ってのは何も人である必要はなくほかの何かに置換できる訳です。

となると問題は投入コストです。

現実での「他者」に比べて、ゲームなどの代替物での「他者」は比較的低い投入コストでそれなりに満足のいく結果を返してくれます。しかも投入労力に対してほぼ線形で望む結果が得られるのです。

現実はどうか。投入労力に見合わない結果しかえられない事も少なくなく、しかも結果は投入労力に対して線形で無いことは明白です。(テスト前に一夜漬けして100点取れる事も、1学期間真面目に勉強していて80点しか取れない事もよくある)

と言う訳で代替物へ「欲望」を投入する事で満足することは、満足する点に於いてはそれなりに有効なトレードオフなのだろうと思います。実際、欲求のトレードオフなんて日常的に行っている事なのですし。

単純にトレードオフされうる対象に今まで不可侵だと思われていた「欲望」の領域が追加されただけであって、動物への転落 だとか 動物への合一化 とかそういった仰々しいものではない気がするのです。