酸素汚染

徹夜明けの変なテンションで垂れ流し続ける。

地球環境は酸素によって汚染され続けています。

30億年前だかに登場した光合成生物は一貫して猛毒である酸素ガスを生産し、嫌気性生物を深海へと押しやってしまいました。*1かつて地球の主であった嫌気性生物はいまや深海の片隅にて細々と暮らさざるを得なくなってしまったのです。

今こそ熱帯雨林なぞ取っ払って地球を嫌気性生物の楽園へと戻す時なのです。

まぁ、ネタです。正直酸素供給されなくなったら死にますし窒息死とか苦しい死に方勘弁して欲しいです。で、この意味不明なネタで何が言いたいかといえば、環境保護なんてのは凄くエゴイスティックな運動だということです。間違っても地球を守るとかいった美名の下行われるべき運動ではないと思います。

およそ人間を含めた生物は地球に勝手に上がりこんで勝手に環境を住み易いようにどかどか工事して勝手に居座ってるのですから、正直汚染と言う言葉の定義の仕方によっては向上が窒素酸化物垂れ流すのも植物が酸素垂れ流すのも同じく汚染になってしまいます。

我々は地球を守っているわけでも、他の地球の住人を守っているわけでもなく*2、自分の住む場所の安全を確保するために環境を維持しようとしているだけなのです。保護とか正直何様なんでしょう? まったく、よくわかりません。

*1:てか、酸素生産ついでに海中に溶け込んでた鉄イオンを片っ端から酸化鉄に仕立ててしまった訳だから人間の環境汚染なんて生ぬるい規模の環境変動である。

*2:絶滅危惧種の保護とかやってるけれど、それは結局生物種の何が欠けると何が起きるかが未知であるので全部保護しておきたいってのも大きいと思う。

信仰の是非

ま、科学は宗教のアンチとして持て囃された時代があったので科学原理主義*1を唱える人がいても仕方ありません。

科学万能主義もそうですけれど、意味への信仰とか自由意志への信仰とか社会的善悪への信仰とか所謂社会的なお題目は今後も信仰され続けるでしょうし、当分異端審問をしたがる人たちも絶えないでしょう。彼らにとって信仰は自己の疑ってはならないものであって、疑いを向けるなど以ての外でしょうから。

とは言え、懐疑主義といえど懐疑する事自体を信仰してしまっているのですから科学原理主義の信仰を批判出来ないと思います。そもそも、文字の読みとか諸般の定義とかを私たちは信仰してしまっている訳ですし。

思考する上で無限の再定義・懐疑なんてのはリソースの無駄です。人工知能ならフレーミング起こしてます。何処かで適当に思考を打ち切る必要があるのです。ブラックボックスでいいから足がかりが必要なのです。

ま、たまにはブラックボックスの中身を思案してみるのも良いかもしれませんが、日常的に考えるのはやはり非推奨要素って事で。

*1:寧ろ正確には啓蒙思想の系譜を継いだ理性原理主義

結構書いた…と思っていた

久々に長い記事を書いて割と満足しました。酒入ってた割には明晰なことがかけてるので取り敢えず満足です。やはり隔離環境は大事だな と思いました。

…と思ったら高々2900文字弱程度しか書いてなかった模様。全く修行が足りませんね。

取り敢えずかけない病のリハビリも出来たし、書きたかったものも結構書けたので一旦日記はお終いにして掃除洗濯しようと思います。