信仰の是非

ま、科学は宗教のアンチとして持て囃された時代があったので科学原理主義*1を唱える人がいても仕方ありません。

科学万能主義もそうですけれど、意味への信仰とか自由意志への信仰とか社会的善悪への信仰とか所謂社会的なお題目は今後も信仰され続けるでしょうし、当分異端審問をしたがる人たちも絶えないでしょう。彼らにとって信仰は自己の疑ってはならないものであって、疑いを向けるなど以ての外でしょうから。

とは言え、懐疑主義といえど懐疑する事自体を信仰してしまっているのですから科学原理主義の信仰を批判出来ないと思います。そもそも、文字の読みとか諸般の定義とかを私たちは信仰してしまっている訳ですし。

思考する上で無限の再定義・懐疑なんてのはリソースの無駄です。人工知能ならフレーミング起こしてます。何処かで適当に思考を打ち切る必要があるのです。ブラックボックスでいいから足がかりが必要なのです。

ま、たまにはブラックボックスの中身を思案してみるのも良いかもしれませんが、日常的に考えるのはやはり非推奨要素って事で。

*1:寧ろ正確には啓蒙思想の系譜を継いだ理性原理主義