世界に対する影響と個人の心理的領土について。

算術師です。

コメント欄
で大失態やらかしました。自分が紹介したはずの頁を他のページと完全に取り違えていた模様。…それ以前に紹介した割に量子力学について無知であることを明らかにしてしまいました。



あと、全然関係ないですけど、最近ぐーぐる先生
劇薬入り
認定されたり、何だかそんな
で検索するとトップに出てしまったりと、かなり不思議な状況になっています。何だかんだで認知されてきてるんですかねぇ…。








さて、日が開いてしまいましたが予告
の通り考えていこうかと。



27日の予告
内では、私たちは現在進行形で釈迦の手のひらで遊ばされてる孫悟空なのではないか? と形容した問題提起ですが、これをもっと整理した言い方をすれば私たちは世界に対してあまりに無力なのではないか? とでも言えるでしょうか。



正直、私たちは無力です。空も飛べず、かといって海中で生きていけるわけでもなく、天候を操れるわけでも、他人の心を操れるわけでも、時間を巻き戻せるわけでもありません。



無論、科学技術やその他の技術によって手足を外挿しては来ましたが、それでもやはり多くのことが出来ないわけでやはり人間が無力なのには違いありません。実際、成長するということはある意味無力な自分と折り合いをつけていく行為なのかもしれません(無論、折り合いのつけ方には10人居れば10人なりの基準なり方法論があると思いますが)。



折り合いをつけて良くとは言え、私たちはそれでも世界に対する影響力を求めています。



身近な例としては、流行が最たる例であるといえるでしょう。流行に乗ることで周囲に良い印象で認知される(自分にとって有利な影響力を確保できる)事を求めるので、流行から外れる(影響力が失われる)ことを恐れる人は狂乱して流行を追い続けるわけです。影響力を失うことは自己が確保していた能力を失うことであり、ある意味で自己が縮小されてしまうことを意味します。逆に言えば、私たちは影響力を確保しているお陰で精神的に自己を保持しているといえます。



やはり、私たちは自分が世界に対してたいした影響力を持っていないと内心知っているこそ、やはり私たちは潜在的より大きな影響力を世界に対して行使したいと言う欲望を抱えているのであり、権力欲はこの欲求の一つの発現形であると言えると思います。権力は自分の周囲に対する影響力をより大きくしてくれるのですから。



このような観点で見れば、自己顕示欲は自分の存在が世界に対して影響力を持ったものとして扱われたいという欲望であり、物欲・財産欲はそれぞれ物品・金銭による影響行使力を所有したいという欲求と解釈できます。



これを推し進めると、凡そ欲望の類は自分の都合の良い状態に世界(人によって範囲はまちまちですが)を改変したいという欲求であり、何故欲望を掻き立てられるのかといえば、自分の影響力に不備があるのではないかと思うからに他なりません。



欲望を掻き立てられる状態 と言うのは一言で言ってしまえば領土の外に魅力的な土地を発見したり、自分の精神的な領土が奪われてしまったりしたとかいった状態なわけです。まぁ、前者は純粋な欲望として発現するのに対して後者は怒りとして発現しますが。



例えば、他人が道徳を乱すことに怒る人は、自分に影響を及ぼしている道徳が踏みにじられることに怒るわけですが、何故かと言えば道徳は普遍であると思う結果、道徳が等しく他人にも影響を及ぼしていなくてはならない(皆が道徳を守っているという観念はある種のその人の精神的領土になっている)と思い、その影響力を無視している人間が自分の理想を傷つける不快な存在に映る(精神的領土という喩えで言うなら、不法にも社会で共通の(そして自分自身の)精神的領土を不法にも侵そうとしている侵略者と言うべきでしょうか)訳です。



そう考えると結構下らないものに対して私たちは執着しているんじゃないかと思う(実際の領土問題が下らない とは言いませんが)のですが…とは言え執着なしの人生(領土一切放棄)も無味乾燥に過ぎると思いますし…折り合いつけていくのが難しい領域ですけど。もう少し自分の当然だと思ってる領土も見直していくべきなのかもしれません。



何だか宗教臭くなってしまっていけませんね。これじゃ何処かの宗教団体の啓発セミナーみたいです。






追記:



そう言う意味では、政治の議論が何故不毛になってしまうかと言えば、政治システムと言うのは即ちその政府が内外に働きかける影響力を制御するシステムであるから とも言えそうです。



つまり、政治論を熱心に語る人は、多かれ少なかれ社会(或いは政府)に対して自分から見て妥当な社会への影響力(或いは行使の仕方)をしてくれることを期待する(勿論、言論で社会が変わるかは別として)訳です。先ほどの喩えで言えば、社会のあるべき姿と言うのはその社会(でなければ主張してる派閥)が共有している精神的領土な訳です。それに反論する人物が精神的領土を不法に侵害する侵略者に見える可能性は十分にありうるわけです。



結局、政治について語っている人間が社会のあるべき姿を自己の精神的な領土に取り込んでしまっているが故に、そして精神的領土に対して執着を持つが故に、客観的な(と言うより感情的な傾向を排除した)議論を難しくしているのだろうと。



どこかの誰か様
も、精神的領土に執着したが故に汚い戦いを自己正当化してしまわれたのでしょう。 それと、最近はBlogも容易に自己の社会(Blog界?)に対する影響力を拡大しうる(少なくとも書く人間からすればそう見える)ツールであるが故に、危険であるのではないかとそう思っても居ます。



要するに、影響力が拡大したと思ってしまうことで本来以上に自己を拡大したものとして認識してしまう(えらいんじゃないかと錯覚してしまう)危険性があるのではないか と。