差別について 補足

さて、本来なら書き投げで済ませるつもりだった23日付の記事「差別とは何ぞや、と」ですけど、どうやらplummetさんにしっかりと捕捉された模様。

で、当該記事「差別とは何ぞや、と」にて例を持ち出した牛の話が読み返すとちょっと誤解を孕みそうなのでこれについて補足しておきたいと思います。

牛の話

例:家畜を一方的に殺害するのは差別である。
  然るに、家畜にも人間への殺害権を付与すべきである。
  或いは、家畜の殺害を停止するべきである。

えーっと。
これは正味極端言うと此処まで言えちゃうから差別を無くそう、偏見を無くそうと言うのもやり過ぎると虚しいよね? 差別無くそうって言っても、そんな理不尽理性的ではないよね? 何処かで偏見を以って区分しないとどうにもならないでしょう? という意味合いで言ってます。まぁ、捕鯨とか捕鯨とかもそんな感じかもね とは思いますが(因みにこれは後付ですけどね)。

さてこの喩え、何が問題かといいますと要するに我々が所謂「同等の存在or同族」に付与している権限を「それ以外の存在」(主に自分たちに従属すると思われるもの)に拡張しようとしている点です。要は人間の権利を人以外、それも食用の家畜に適用してるのが問題だ と。

さて、これを見ても解ります通り 差別行為によって人が咎め得るのは概ね差別行為の対象者が「同等の存在or同族」であることが前提であるように思われます。

翻って見れば、ある意味強固な人種差別・偏見と言うのはある意味対象人種を「同等の存在or同族」と見做していないが故に強固であり(何故それが問題であるか? と言う発想さえしないわけですから)、解消することが難しいのでしょう。

この意識の差を解決するにはどうするか? 一番無難かつ確実な方法は、お互いを同等の存在事に分類しなおすことにあるでしょう。要するに、被差別対象だったからと言って過剰に優遇するわけでもなく、差別していたからと言ってそれを過剰に懲罰するわけでもなく。お互いがお互いを同等の存在に見られるようになるか、お互いに無関心になれるくらいまでカテゴリを拡大する、これが無難なのでしょう。と言っても中々実行するには難しいですけどね。

まぁ、plummetさんの言う通り動物を持ち出すのは迂遠過ぎですが、極端に突き放して考えられることも有るでしょう と。そう言い張ってみます。個人的にはアンドロイドとかを筆頭にした知能を持ったロボットが実現可能になった場合に彼らをどのような立ち位置に収めるべきか、とかいった問題も興味深いのですが…。暇になるか、人工知能が人間に迫る頃になったらまた考えることにしましょう。

無論、内心の自由は保障されて然るべきです。確認のしようのない問題を叱責の対称にすることは間違っていますし、差別的な発想を実行(不当に他者の機会を制限する行動に出る、罵倒する、攻撃する などの行動を実際に行うこと)しない限り、それらを抑制していることには一定の敬意を表するべきでしょうから。


■2005 07 28 21:58 の加筆修正■

コメント欄の指摘により、第8段落(この意識の差を〜)を変更。変更前と変更後を記載する。尚、変更箇所を強調しておく。

変更前

この意識の差を解決するにはどうするか? 一番無難かつ確実な方法は、同化していく事にあるでしょう。要するに、被差別対象だったからと言って過剰に優遇するわけでもなく、差別していたからと言ってそれを過剰に懲罰するわけでもなく。お互いがお互いを同等の存在に見られるようになるか、お互いに無関心になれるくらいまで同化する、これが無難なのでしょう。と言っても中々実行するには難しいですけどね。

変更後

この意識の差を解決するにはどうするか? 一番無難かつ確実な方法は、お互いを同等の存在事に分類しなおすことにあるでしょう。要するに、被差別対象だったからと言って過剰に優遇するわけでもなく、差別していたからと言ってそれを過剰に懲罰するわけでもなく。お互いがお互いを同等の存在に見られるようになるか、お互いに無関心になれるくらいまでカテゴリを拡大する、これが無難なのでしょう。と言っても中々実行するには難しいですけどね。

…読みようによっては主張が180度違って読めてしまうかも知れず、誤解を招く可能性があったので上記を以って訂正とさせていただきます。
尚、「同化」と言う用語を用いたのは、お互いを知り認識を再定義するには結局接触頻度を増す他無いのである程度の近接化が必要である という認識があったことも併記する。