人生の意味だとか生きる理由だとか

人生の意味とは 意義とは何だろう? 人が生きることの本質は何だろう と、そんなことを追及している人が結構居ますが、あれは何を考えているのだろう? とふとそんなことを考えてみました。

敢えて言いますが、私としては人生に本来的な意味だとか生きるのに本質的な理由がある訳が無いと思っています。丁度、自分探しが体の良い言い訳にしか過ぎないように。

人が生きている 人が生まれてくる という事は実際には単なる事象です。雨が降ったり地球が回ったり太陽が輝いたりするのと同じ 単なる事象です。

それ自体に意味も、本質もありません。

全ては意味やら本質が在って生起するのではなく、何の意味付けも価値判断もされないままこの世に放り出されて人間は誕生している(勿論、他の物だってそうですが)のであり、生きる意味なんて死を恐れる人間が勝手に生み出した幻想なのです。

つまり、生きる意味があるならば それは当面死を回避することが許される、生きる意味があるから人は生きなくてはならない と。

正直、そこまでして生きることを肯定したいのか? と疑問でなりません。生きたいから生きている それで良いのでは無いでしょうか? 何故其処に必然性だとか本質だとか意味だとか小難しいものを導入しなくてはならないのでしょうか。

まぁ、幸いこの疑問の回答は簡単です。「生きたいから生きる」という言を認めるならば「死にたいから死ぬ」を認めなくてはならないからです。それが自分に関係ない人間のものでも許されざるものに映るのでしょう。

正直、死にたければ死ねば良いと思います。生きることが素晴しい訳でも、何としても生きなくてはならない訳でもない訳ですから。それは生きる本質がそうだからとか生が無条件に肯定されないといけないとか表面上主張して、「無造作に死んでよい」という主張を棄却しようと言う発想って結局無造作に自分の生も否定されうる恐怖を払拭する為のもののような気がします。

そんな狂気に駆られて肯定を打ち出し続ける「生命賛歌」 最早呪詛だと思いませんか? 「死ぬのはいけない」というお題目から出発する「生命賛歌」なんて馬鹿らしいと思いませんか? 正直、何が何でも生きなくてはならないとは思いませんし、死を渇望するなら死ぬのもアリなのではないかと、そう思います。

何が何でも生きなくてはならないと主張する人は、「何が何でも生きていたい」という自分の思いを肯定したいからそう主張しているのであって、それを弁護する為に生命の本質とか人生の意味とか命の重みだとかを主張する訳ですが 結局それは他人を巻き込んだ自己欺瞞に過ぎないと、そう思う訳です。

無論、こんなこと大っぴらに言って「お前が死んで良いって言ったから死ぬよ」とか言われても困る訳ですが…。そういう言い訳しないと死ねないなら、我慢して生きてなさいと言いたくなりますしね。私もまだ死ぬ必要性を感じませんし、生きるのそれなりに楽しんでますから当分自分からは死なないでしょう。

まぁ、意味は内在してるんじゃなくて人間が(もっと拡張して言うなら意識が)意味を与えて勝手に解釈して勝手に本質を見出しているんじゃないかな と。