幻影に埋没してしまえ とか。

昨日の記事「いや、何で洗脳されちゃい拙いんだろう?」及び「結局は色塗り」を少し推し進めてみる。相変わらず読む人のことを全然考えてません。意味不明だと思ったら遠慮なく質問でも。

個人が持つ世界へのメタ(意味だとか価値観だとか)を引き剥がすにはどうしたら良いか? つまりは突飛な色の絵の具で塗り潰すのではなく、絵の具自体の色を消し去るにはどうしたら良いだろう? と、そんなことを考えてみる。別の色で塗り潰す関連はカフカの「変身」とかでも読むとして。

まぁ、絵の具塗らずに輪郭を表現するなんてのは絵を絵として成り立たせようと思ったらそもそも無理(まぁ、輪郭とか絵の具とかに依存せずに絵を構成することは出来るかも知れない。が、それでもキャンバスそのままってのは絵ではないだろう)なのだから。

考えられるのはメタとしての絵と実体としての絵の並在構造なのだが、それは絵の具を剥がすと同時に別の絵の具を塗ってはいまいか…例えば油絵の具を洗い流しつつ水墨画を描くような…。まぁ、この辺は最近結構やり尽くされている印象もありますが。

とは言えその手の実験って、徹底的に現実の現実味を希釈していくことで逆に希釈されていく現実に接近しようとする試みが大半であって希釈した先に何があるかについては考察できてないのではなかろうか とか。意識が意味コードを引き剥がされた対象を認識出来ない以上、致し方ないのではあるのですが。(例:虹の色は6色か7色か問題)

メタを剥がした世界ってのは「知覚・感覚そのもの」な訳であり、これを記述する言語はない訳ですし。いや、そもそも記号化不可能なものを記号にした時点で欺瞞が混入するのは避けられなさそうですし。

やはり希釈するのが無難なのでしょうね…。そのような問題提起がしたければ。