生死観

特に死にたいわけではないのですが、ちと精神的にむなしいものを感じたり感じなかったりな今であればそれなりなものが書けそうな気がしたので書いてみます。

9月前に書いた「人生の意味だとか生きる理由だとか 」にても語ったのですが、私は生きることに本質的な意味があるとか、生きることが尊いとか考えている人間ではありません。

死にたきゃ死ねば良いし、死にたくないなら生きていろ と。尤も、これが前述の記事の骨子ではない(誤読してこんな記事書いてくれた御仁もいましたが)のですが、私の生死観を一言で言うなればそんなものでしょう。

まぁでもこの言い種は死にたいと思ったときに死ねて、いきたいと思っている間は生きていられると言うのがある意味前提になっているのかもなぁ と。

では死にたくなくても死ななくてはならない状況になったり、生きていたくなくても生きざるを得ない状況ならどうするのか? とか考えてみたいと思います。

前者に関しては治療の困難な病気になった場合、後者に関してはベッドに括り付けられて自分では何もできないし死ぬに死ねないが具体的だと思います。

前者に関しては、余程の思い残しがあるor実用的なレベルで可能な治療法がある場合以外は諦めて死んでそうです。残してく人たちは? とかも考えないでもないですが、それに関しては、生かしておきたいと思ってるほかの人のエゴとのトレードオフになると思います。とは言え、多分終末期に入ったら意図的に死んでそうです(無論、明らかに生存の可能性がない場合に限りますが)。凄い自分勝手ですね。

正直、病気は嫌(現在進行形で意識半分飛びかけてますけどね)だし、しんどいのは御免なのです。病気で死ぬこと よりも 病気で苦しんで死ぬこと が私にとっては遥かに恐ろしい。苦しむ中5年も10年も生かされるのは御免なのです。死ぬなら即死か昏睡したまま死ぬのが理想ってのが本音です。はい。

どーせ自分が死んだ後なんて、意識やら何やら全滅してる筈なので多分知覚出来ないですしね。

翻って前者。

これはある意味どーにもならないのですね。何せ私の知らない間に医者やら家族やらが望みもあるのかわからないのにせっせと生かそうとしてくれてるわけですから。

まぁ、その間意識がないならそれは死んでるのと同じなので別段憂うことはないのですが(脳死とかそんな感じか)、意識があって痛い苦しい動けない動けないでも死ねないって状況は最悪です。早く殺してくれ と願うばかりですね…。

無論、こんなことを書いているからと言って、生きたいと願っている人に死ねと推奨しているわけでも、自殺を推奨しているわけでもありません。そう思う人は生きる事に最大限の努力をすればよいのですから。それでもままならないのは、申し訳ありませんが甘受して下さいとしか言いようがありません。

選択肢の自由を確保する意味でも、不老不死の法でもあればそれがベストなんですけどね…。

8月末の記事でも書きましたが、私からしてみれば生きることに意味を与えたり死ぬことに忌避感を過剰に与えたりするのはそもそもおかしいのです。

生きることは生きることでしかないのですから。それにどういった認識を与えるのかなんてそれこそ本人の勝手に任せていいと思います。