より良き議論のために。

記事が消えてしまったので、気を取り直して無関係に書き直したいと思います*1

政治系の話題に関わらず、日常生活での論争*2は概ね平行線に終始しがちです。

少し捻くれた言い方をすればこの手の論争が平行線になってしまうのは、それが既に論争ではなく宗旨上の闘争の手段になっているから と言えるかもしれません。

詰まるところ、悲しいかな議論を仕掛ける人の何割かは議論をしようと思って議論を仕掛けに行くのではなく、許し難い言説を吐いた人間を折伏し調伏する為に議論を仕掛けに行っているのです。他の人の言説を耳にした時点で疑問を感じるのではなく、怒りを感じているのでしょう。要は彼らにとっては自説が正しいお前の説はおかしいと主張するのが目的であって、疑問を解消したり言説を深めたりするのが目的ではないのです。

所詮世界に勝手に輪郭を描いて勝手に色塗り*3したものでしかない自分の見解をさも得意気に世の真理であったり社会的正義であったりするかの如く拡大認識してしまう*4ようでは結局相手を無視した議論しか出来ないでしょう*5

ま、何にせよ私としては「俺はこう思うんだ俺は。俺は俺は」ってな感じで自説を説く人間と会話するのは、聞かれても居ないのに私にとって興味の無い薀蓄を垂れ流す人物と会話するのと同じくらい苦痛です。最低限、自分を相対化できるだけの度量がなくてはお互いにとって生産的な議論をすることは不可能でしょう。

よく交渉能力やら議論能力を高める訓練としてディベートが一時期学校教育で持て囃されていたような気がしますが、いきなりディベートをするのは正直論外なのではないかと思います。確かに正しく行われればディベートは議論能力の向上に役に立ちますが、自分の見解を相対化できるようにならなくては言葉で優位を奪い合う技術の向上すら危ういのです。それこそ、声の大きい者良く喋る者が優位に立つだけのゲームになること請け合いでしょう。自分の昔話を例に出すなら、高校の現代の授業か何かで「男女間の友情は存在するか?」なるテーマで5人1チームのディベートやった記憶がありますが、一人自チームの8割くらいの時間を喋り倒し、相手を一人で延々質問責めにして勝利しました。残念な事にどちら側に立ってどう論を構成したのかは忘れたけれど。

正直議論能力を高める為にディベートやるくらいなら、まず産婆法でも実践して自問自答の仕方を学ぶべきなのではないかなと思います。或いはディベートの変則的なパターンとして、教師が「正論と思われること」の側に立って生徒が本来正論らしくない立場を何とか擁護する方式でディベートを行うというのも考えたのですが…如何なものでしょうか。これなら世の一般的な思考を相対化する訓練として役に立つと思うのですが…。

相手を論破するのが議論だと思っている人が本当に多いですよね…。しゃべり場じゃないけれど…。

最後に唐突に思考を相対化する為の例題出しておきます。誰か暇な人答えてください。

主張:「俺が世界を作った」 が証明も反証も不可能な事を、具体的に問答例を挙げて示しなさい。

*1:最近の学生の傾向についてに言及しようと思ったが、どのように言及しようと思ったか忘れたため開き直って風呂敷を広げることにした とも言う。

*2:そもそも論争なんて日常的にしないかもしれない。もっと一般的には音楽の趣味とか本の趣味とかに関する議論も含まれるのだろうか?

*3:世界を認識し、それを解釈する事。輪郭を描く=認識する 色を塗る=解釈する である。先日の記事と絡めて言えば、世界に対するシミュラークラ体系を生成し、生成されたシミュラークラのシミュラークラの体系を生成する事と言えるかもしれない。真善美はメタであると言うのが私の立場である。

*4:そもそも、そんなものが存在すると信仰している時点で十分拡大認識している。が、社会的正義や真理が社会的擬制であると言う主張も信仰である。これに関してはまたエントリを改めて語りたい。

*5:同じような見解の相手だったり、攻撃性を意に介さない相手と議論できるなら議論した風に状況が推移するかもしれない。しかし、この場合でも基本的に行われるのは自説の補強であることには変わりない。「冷静になるために考える事(劇薬入り)」及び「世界に対する影響と個人の心理的領土について。」を参照のこと…と言ってみるが余りに昔の文章過ぎ+書いてる本人(昔の私)が冷静でなさ過ぎ で読み返して改稿したくなった。どうしたものやら。10ヶ月ほど前の自分から進歩したと見るべきなのか…。