悪意ある身も蓋もないコミュニケーション能力論

コミュニケーション能力を育む教育――批判点、評価できる点などを読んで、取り敢えず中学高校と意見を発信しすぎて酷い目にあってきた過去を踏まえて批判点をつらつら述べたくなってしまったので延々批判をしてみる。

さて、世間様では教育にカリキュラムを新設してまで高めなくてはならないと持て囃されているコミュニケーション能力とは何なのでしょう?

意見を言える力でしょうか? 意思を表明する力でしょうか?

敢えて言いますが、そんなものだけ発達させたところで何になるでしょう?

以下ではコミュニケーション能力を「意思表明能力」と解釈した上で話を進めましょう。

では、最もコミュニケーション能力を容赦無く発露しているのはわがまま盛りの幼児です。元気な彼らは、周りも何も考えずに叫びます。「ああしてこうして」「あれがほしいそれはいや」と。この能力が発達した極端な例はといえば学級崩壊です。彼らは「授業なんてやりたくない」を表明し、実際にそれを勝ち得ているのですから。

まぁ、尤もこの意思表明能力の発露は「崩壊」と銘打たれるだけあって教員側からは歓迎されません。それもその筈、彼らが行おうとしている授業を台無しにしてしまうのですから。

さて、近年コミュニケーション能力の低下が騒がれているようですが…彼らは何故意思を表明する能力を発揮しなくなったのでしょうか?

簡単な事です。

言ったところで無駄であったり言ってしまうと余計面倒だからです。

例えば学校で先生に呼び出されたとして、呼び出された生徒が弁明をしたとしましょう。教師の第一声が「屁理屈言うんじゃない」であったり「言い訳するんじゃない」だとしたら子供はどう思うでしょうか? 言ったところで無駄だし黙ってしおらしくしておいた方が得策だ と判断するのではないでしょうか?

或いは、クラスで討論でも行ったとします。ある生徒が、奇抜な意見(教師の価値観にそぐわないものとする)を提示したとします。その時常識を盾に「屁理屈を言うな」「それは下らない考えだ」等として発言の撤回を強行させたらどうでしょう? ああ、こんな奴とは付き合いきれない黙っておこう と生徒は思わないでしょうか?

もっと酷いのは道徳の授業です。大概の生徒は「もっともらしい答え」を概ね知っているのです。とすればどうなるか? 生徒は教師の質問に模範的に回答します。その回答が道徳的に正しくて良いものだからではないのです。ただ、無用の追及や叱責が煩わしくてそれらしい予め用意されていたもっともらしい回答を再生しているだけなのです*1。彼らは、どうせ何を言っても聞かないのだから と面従腹背を心に決めたのです。無力な彼らにとっては、これは自己保身の有効な手段といえるでしょう*2

もっと過激な例を持ち出しましょう。

例えば暴力を振るう両親の元で暮らしている子供にとって、親に何か発言する事はくちごたえと解釈されてしまい暴力に晒される機会を増やす事になりかねません。また、近隣の住人に事情を話す事は、発覚した時のリスクを考えるととても恐ろしいものです。そんな状況で「コミュニケーション能力が低く」なんてのはお笑い種です。子供の方が状況が見えているとしか言いようがありません。対抗手段を持っている大人ならいざ知らず、子供は親の暴力に対して無力なのですから。

以上のように、彼らは意見を表明しないことで大きなインセンティブを得ることが出来ます。学校生活や家庭生活において意見を表明する機会なぞ数が知れたものです。そんなことは目立ちたがりの人間や、所謂優等生に任せておけば良い。それが出来ないなら押し黙っていても良い。彼らは沈黙する事によって被る被害を削減しているのです。教師や親にとって見れば不気味気なのでしょうけれど*3

そこで悪意を以って考察するに、このような状況で教師や親が「コミュニケーション能力を養う教育を」と語るのは子供に対して「お前らは何も言わないで押し黙ってて不気味だ。だからもっと子供らしく口を開け。でも口答えしたり困らせるような発言はするな。」と言っているのと同じなのでは無いでしょうか。

こんな状況ではぐくまれる能力とは正に面従腹背する能力であり、人間関係を悪化させない程度に制御する能力です。

意見を発信する能力を要求するならば、受け手の側は意見を受け止めなくてはなりません。そんな事もせずに「コミュニケーション能力を」と言うのは本末転倒も良いところなのです。受け手が意見を受け止めないまま子供に一方的にコミュニケーション能力を育てる事を強いることは彼らが擬態すべき「良い子」の項目が一つ増えるだけなのです。勿論、そのように提唱する環境ですから意見を受け止める能力は高いはずなのですが。そうでないならば子供にとって悲劇であり、社会的な茶番と言えるでしょう。

意見の発信能力は見栄えもしますが、所詮は周囲の環境を自分の都合の良い状態に動かす能力の一部分でしかありません。人間関係に関してでさえ、意見を聞きだす能力・意見を受け止める能力・人間関係を適切に維持する能力・新しい人間関係を構築する能力・揉め事を収拾させる能力など必要な能力は多数あるのです*4

にも関わらず、子供にコミュニケーション能力の向上のみを要求するようであるならば、先程の邪推が現実味のあるものとして疑われるべきなのかもしれません。

と言う訳で、コミュニケーション能力を高める必要があると判断するならばコミュニケーション能力向上カリキュラムを行う前に、教育側は子供の意見を聞き受け止める*5能力を高めるべきなのではないかと判断します。まぁ、子供に媚びてもそれはそれで教育にならないので、問題な点も多いのだけれど。

と言うか、そう言う先生ばっかりの学校あったらやり直したいなぁ…。

*1:普段道徳的に見えず、権威を嵩に着る教員の場合その傾向は酷くなる。余計に面倒が推測されるので、一層模範的な回答をするようになる。

*2:万が一逆らったりしては評定を下げられたり、「反抗的な生徒」と通信欄に書かれたりされかねないのだから。

*3:以上の例は家庭内暴力も含めて全て私の実体験。尤も、学校での例は拘束時間も短い所為で引き下がったりしなかったけれど。彼らが「コミュニケーション能力を」とか言い始めたら、今の私は笑い死にしてしまうかもしれない。そう言えば親子の対話がどうのとか最近になって今更父親が言ってたのだった。自分が元気なうちは「お前は投資先」とか言ってたくせに今更親子かよ。ははははは。

*4:彼らはかつての世代に比べて、意見を言わない事で人間関係の緊張を回避していると言える。その意味では対人関係の能力が低下した訳ではない。

*5:別に反映させなくとも良い。必要があるなら納得してもらう努力をすれば良い。