言語思考の遅さについて
サークルの友人からこんな記事を紹介された。割と有名だったので記事は知っていたけれど良い機会なのでエントリ立てて考えることに。
自由意志があるかどうかに関しては稿を改めるとして、今回は思考と行動の順序の問題を考えてみる。
私たちは思考を何によって認識しているか と言われると概ね言語で思考している と回答されるだろう。何しろ言語化されていないものは認識できないに近いのだから。
非言語思考から言語思考への変換に必要な時間的コストがどの程度のものか不明ではあるけれど、仮に音声的に処理した場合*1それなりに遅いことは十分に考えられます。何せ音声として擬似的に処理した場合、発話速度に縛られてしまうのだから*2。
昔の記事に階層モデルで意識を説明しようとしたものがあったが、それに則って考えるなら思考を認識する作業と言うのはさながら以下のような経路で行われると考えてもいいのではないか と思う。
思考する(認識層)
→擬似的に音声化する(感覚層)
→擬似音声を聞き取る(物理層→感覚層)
→擬似音声を記号化する(認識層)
→記号を解釈する(概念層)
一方、身体の動作は次の通りである と考えられる。
思考する(認識層)
→想定動作を具体的な動作に変換する(感覚層)
→体を動かす(物理層)
こうなると記号化→解釈のコストが大きい為、思考を認識するのが動作を実行するのに比べて遅れても仕方ないと考えることも出来る。
もしかするとディスプレイのリフレッシュレートとディスクのI/O速度を比べてディスクの方が高速じゃないか と言うくらいに的外れなことを言ってるんじゃなかろうか…とも思うが、正味原書読んでないので思考と行動の時間的ギャップの問題はこのくらいに。時間と予算の都合*3がつけば読んだ上で改めて何かを書いてみたい。
個人的な体感だが、思考を言語化する作業は時に洒落にならないくらい遅い。それこそ、言語化してる本人が苛々するくらいに。体調または精神の調子の悪いときは概ね非言語思考速度≒言語思考速度になるので問題を感じないが、調子の良い時は非言語思考速度を言語に翻訳するのが億劫になってくることもよくある*4。それこそスローモーションで再生される声を聞き取って会話する感じ と言えば理解が容易だろうか。
とは言え、言語化/記号化されないとやはり評価が難しかったりするので記事を書いたり言葉にしてみたりして整理は必要なのですが。