人生は形容詞 だけれども…

世界を認識し、意味を規定する存在である自我が、自我自身に意味を規定できない(つまり既に他者により規定されていて、尚且つ変更権限が無い)なんて、どれだけ好意的で高尚な存在意味を定義されていても非常に絶望的だと思います。操作も受け付けず、交渉の余地も無いのですから。

人生は動詞か形容詞か?

この記事を書いたのが既に2年も前の話だったのか と、妙に納得のいかない驚きを感じつつ読み返してみる。あのころの私はかなり理想主義者だったのだな と、妙に老け込んだ感慨を抱いてしまった。

過去の記録曰く、人生は操作するものであり交渉することによって結果を得るものであるらしい。しかし、この2年で新たに認識した結果によればどうやらそうでもないようです。

私たちが操作や交渉の対象とする世界は広大 と言うか私たちに非常に無関心です。そもそも、関心なんて概念を世界自体が持っているとは考えにくいのですが。私たちはどう交渉したところで今のところ死ぬのは確定ですし、下手すれば明日想像もしていなかった無慈悲な一撃によって死んでしまうかもしれません。そんな状況であるのに交渉だ操作だなんていってられるか と言われればそれは不可能なのではないかと思います。どちらかと言えば制御とか管理とかそういう主体性のない用語が適切なのかもしれません。

更に言えば過去の私は自分と世界の間に明確な線引きが存在すると認識していたようですが、それも怪しいものです。これに関してはこちらに稿を譲ることとしますが、自分と世界なんて明確な線引き*1がある筈もないのです。そもそも線なんて人間の認識が作り出したシミュラークラ*2なのですから。

世界は と言うか世界の認識というのは多分に仮構の集合体であり、私たちはその幻想に必死にしがみついて何とかやってきていると言うのが正しい姿なのでしょう。生きることは正しいことだったり、自分は肯定されうる存在だったり、自分はここに存在していたり、夢を実現することはすばらしいことだったりしないと、生きていくのは苦しいのですから自分にとって都合の良い認識の麻薬を服用して生きていくのが望ましいのです。正直この麻薬禁断症状も激しいですし。正直麻薬でHappyになるのと認識の麻薬でHappyになることと本質的な差異は何なんだろう? とさえ思わなくもありません。無論社会的な問題とか経済的な問題とか倫理的な問題とか法律上の問題とかはあるのでしょうけれど。

取り敢えず最大の麻薬は自分は自分であること なのではないかとは思いますが。

そういう意味ではやはり人生は形容詞なのですが、私は私の存在事由を最早決定できるだけの盲目さ*3はないようです。と言うか、禁断症状にのた打ち回っている現状には過去の自分がどうしようもなくうらやましいものに見えてしまいます。

*1:線引きを行うこと自体が既に恣意であってともすれば実体から乖離しているだろう。と言うかその発想自体おそらくずれている。

*2:要するに幻影。まぁ、便宜上設定されるものはすべて仮構と見るなら ではあるが。

*3:直向さと言い換えてもいい