もう仕方がないのでそれはゲームだ、政治だと言っておく

何故か11月になってから大昔の某記事がブックマーク追加されていた。

何故今頃? と思いつつも、過去を振り返っておく。

さて、当該記事を簡単にまとめると大体こんな感じです。

人生の意味について考えるのは実は無意味。なぜなら人生そのものに意味はない。

  • 理由:概念の意味は認識の都合で生産されている代物であり、人生も例外ではない


社会自体にもきっと意味はない。

  • 理由:社会は人間の構成物*1

はい。身も蓋もないです。要するに意味があるとかないとかそんな議論をついついしたがるけど、実はそれは個々人が勝手に用意してる幻想だよねと言うことを言おうとしてみた訳です*2

どうにもこうにもポストモダンの臭いがしますね*3

まぁ、混沌の故事*4じゃないですけど無意味とは何かを私たちは認識したり定義したりは出来ません。

無意味に意味を与えてしまえばそれは既に「意味ある何か」になってしまっているのですから。

さて、話を戻しましょう。

社会や国家は、言うなれば世界と言う目的があるんだかないんだか判ったものではないゲームのメタプレイヤーです*5。まぁ、縮尺を変えて見れば人間は多数の細胞というプレイヤーから構成された一種のメタプレイヤーですし、細胞は分子というプレイヤーから構成されたメタプレイヤーだと言えるでしょう。

国家はメタメタメタ…プレイヤーですよね などと言い出すと階層の定義などで揉めてしまうので、ここでは個人をプレイヤーの単位として社会を個人から構成されるメタプレイヤー、国家を社会から構成されるメタプレイヤーだとして話を進めるとします。

今回、こと認識に限って言えばメタプレイヤーである社会や国家は私たちの意味とか認識と言ったものを担保しており、見返りと言うのが適切かどうかは判りませんが社会や国家への貢献を個人から受け取る という構造のゲームを行っていると考えていいでしょう*6。社会は一種の強制力を持つ暴力組織であると同時に、幻想を提供する装置であると言い換えても良いかもしれません。

また、このとき社会にとって都合の良いかどうかといった判断も同時にしてます。具体的には生きることは良いことだとか労働は尊いとか人権は尊重されないといけないとか自殺は良くないことだとかetc... まぁ、山のようにあります。

社会だとか国家だとかがこんな構造のゲームに参加することになったのは割と大昔からな訳ですが*7啓蒙思想とか自由主義とか何とかそんなものを根拠に持ち出して力尽くでゲームバランスの変更を近代に行った訳です。

さて、このゲームに多数の人は割と無意識に参加してますが、このゲームは別に参加しなければならない というものえではありません。少なからずペナルティはありますが(倫理観のない奴だと言われるetc...)、ゲームのルール自体を個人的に解体してゲームから離脱することは出来ます。

疑ってみるのです。果たして人間尊いらしいけどそんなの本当なのか? といった風に。

残念なことにこの意味の解体によって社会とか国家といったものが今まで担保してきた個人プレイヤー自体の意味だとか目的だといったものも同時に解体してしまいます*8

言い換えれば、個人を主体的な存在からゲームの枠内の現象に引き摺り下ろしてしまった訳です。

このような方向性を、多分社会は求めていないと思います。なので自殺対策に躍起になったり、意味を解体しようとする人たちに「非道徳的な行動を奨励するのか?」と迫る訳です。

感動も夢も希望も絶望も等しくゲーム枠内の現象に転落してしまうのですから、個人が勝手に満足感とか倫理観を感じて勝手に社会的に都合のいい行動を取ってくれると言う社会側からして見ればこれ以上のないアドバンテージが破壊されてしまいます。ですから社会が社会的な意味の解体阻止に走るのは当然だと思います。

まぁ、意味が解体されたからと言ってそれが無意味だとか無価値だとか弾ずるのは早計と言うより誤りです。無意味だとか意味があるとか、そういった議論は意味が担保されるゲームが存在する世界での議論に他ならないのですから。そんなものは個々人で勝手に色塗りすればよいのですから。

社会とか国家とかは彼らの思惑で行動する。ゲームの支持者は支持者でゲームに残留する。ゲームがどうも気に入らない人は気に入らない人で他のプレイヤーとの折り合いを考える。それでいいんじゃないかと思います。

うーん…書いてて何だか言いたいことが書けていないような気が。あと最後に、私は無政府論者ではないです。社会は大いに利用価値があるので消えてもらっては面倒ですから。ついでにゲームに残ることはそれはそれで価値があると判断できるなら十分良いことだと思います。私にはメリットが少なかった、それだけです。

*1:非人工物にしたって意味があるわけではなく、勝手に意味を付与しているので本質的には意味を持ちえない

*2:意味とかどうでもいいじゃん って判断自体意味付けをしているのでやっぱりそれは幻想だと言うことになる。

*3:どうでも良いけどポリティカルコンパスの哲学版を誰か作ってくれないかなぁ…と、思わなくもない。

*4:混沌の故事についてはこちら。混沌に輪郭を与えてしまったら、混沌は混沌ではなくなってしまった…と、そんな内容です。

*5:と言うか、関係性だけに着目すれば世界とはゲームのフィールドだと見ることが出来る というのが正しい表現かもしれない。これは構造主義的アプローチなんだろうなぁ…。因みに此処でいうゲームとはゲーム理論でのゲームのことを指します。

*6:参加してるプレイヤー自体がそれを認識してるかどうかは別問題として

*7:中世とかだと権威が絶対だったのでゲームはもっとメタプレイヤー有利だった

*8:私たちは教育によって少なからず社会よりの価値観を構築されているので、社会よりの価値観の解体は同時に自分自身の価値観の解体をする破目になる。また、意味自体を解体するとすれば意味に依拠して自己を構築している私たちは自己を解体する他ない。