世界がここで閉じている
困ったときは他所からネタを持ってこよう、ということでみちアキさんのBlogから。当該記事はこちら。
主な議論は二つで一つが「開闢の問い」、そしてもう一つが「意識の融合可能性」と認識しました。私的解釈ですが、両者に共通するテーマとして意識の一貫性であるとか、一人の人間には一つの意識しかないってホントかな といった話がされているようです。
開闢の問いに関しては、どちらかと言えば機械的唯物論者なので割とどうでも良いのでスルーします。
そんなものは「なぜ私なのか?」ではなくて「私に似たような振る舞いをしているあれらは何だろう?」に近いものだと解釈できますので。私たちから世界が開けてると言うよりは、私たちの側で世界が閉じた というのが妥当な見方な気がします。
と言うわけでもう一つの議論について。
私たちの意識というものは本当に一つなのでしょうか? 私にはそうは思えないのです。寧ろ、実は複数の意識が存在していて、それを何とか一つに見えるように隠蔽しているだけではないのでしょうか?
人体と言うハードウェアは、悲しいかな排他制御の山です。入力にしたって出力にしたって複数の制御系が動かすのにはとても向いていない代物ですし、私たちの意識は複数のことをこなすのに非常に向いていません。しかし、この排他制御の山を処理するのは非常に排他制御に向いてない、並列性の高い情報処理システムなのです。
ところが悲しいことに、人体にとって一貫性とか排他制御というのは非常に重要な要素です。記憶の一貫性が無ければ私たちは学習するのも困難ですし、感覚の一貫性を失うと生存が危ぶまれます。動作の一貫性がなくなってしまうと、例えば右足は前へ左足は後ろへ進もうとしてよくわからない踊りを踊ってしまうかもしれません。
そんな訳で、私たちは非常に大きな代償を払って一貫した意識というものを何とか確保している と、私は考えます。
ただし、150億だかの脳細胞がいきなり全体で協調して一つになって動くと言うのはあまりに不自然ですし、実際問題言語野がどうだとか運動野がどうだとか大まかな機能に切り分けて*1統合している訳です。さて、とすれば恐らく意識も同じように出来ていると考えられるでしょう。
私たちが一つの意識だと思ってるそれは、単純に複数に見えると困るがために一つに取り纏められている そんな気がするのです。例えば統合失調症や乖離性人格障害が発生するのは、システムを取り纏める強制力に異常が発生したために起きる症状ではないか と、考えます。そうでなくても、感情と理性の板挟みなんてのは割と日常茶飯事ですし。きっと余りに協力に統合に成功しているので、各システムの継ぎ目が見えなかったり、輪郭があやふやに見えるのだと思います。
そんな訳で、個人の意識は元々私たちが「一人に一つ」だと思い込んでいる(または思い込もうとしている)だけで、実際には複数を何とか束ねているのだろうな と。
とすれば、みちアキさんの言う通り、他人の脳との接続が成立してしまえば、同じく統合されることによって継ぎ目が見えなくなってしまうことは普通にありえそうなのですが… こればかりは実現されるやら。
自己との出会い
私が自分の意識を自覚したのは、確か5歳の頃でした。
その頃の私は独り言を吐く癖が酷く、親から「もっと静かにしなさい」だとか「思ってることを何でも垂れ流すもんじゃありません」だとかよく叱られたものでした*1。
余りに煩く叱られるので、気づけば独り言を頭の中で呟くようになっていました。何だか良く判らないけれど、口も使わずに頭の中で呟くことが出来るらしいことに気付いたのです。
そんなある日、ふと「そもそもこの呟きって誰が誰に向かって呟いてるんだろう?」と 聡いんだかネジが抜けてるんだか判らない疑問に思い足りました。
で、その時は「自分が自分に向かって呟いているのだ」という、ある意味トートロジーな回答を出して満足していたようです。確かその時は自宅近くの公園だかを一人で散歩していたのですが、その回答を出してから数歩歩いてふと気付いたのです。
ああ、どういう形かは知らないけれど確かに私は私を持っていて、私と言うのはそんな風に存在してるんだ と。
今となっては「そんな風」がどんな風であったか思い出すのは困難なのですが、それに気付いてよくわからない興奮と共に一人公園を走り回っていたのを今でも覚えています*2。