漢字仮名混じり文について

ヒロさん日記より、「かんじに「こだわる」のはホドホドにしませんか?」を何となく眺めて思ったこと。

漢字仮名混じり文を廃止(別にこれは他の慣習でも良い。判子を廃止 とか、いっそ英語にしてしまえ とかでも良い。)してみてはどうなのだろうか? といった議論になるとき、よく持ち出される論拠にこんなものがある。

○○の点から、漢字仮名混じり文は非合理的である。

○○の点から、かな書きは非合理的で望ましくない。

まぁ、テンプレートなので興味もありませんしお好きなものを入れてくださいな。

さて、この議論ですが実用という意味から考えてみれば全く無意味と言えます。

例えば今お使いのキーボード。この並びをご覧頂きたい。まぁ、ケータイから見てるとか、実はテレビから とか言うそんな貴方は操作しているボタンの配列でもご覧下さい。説明の上では問題になりませんので。

さて、ご覧頂いた通り このボタンの配列は全く非合理的であるとしか言いようがありません。何で母音がバラバラの位置にあるんだ 使わない文字が中心に来過ぎなんじゃないか 記号なんてそんな日常的につかわねぇよ 等等、不満を言い始めたら限が無いったらありゃしません。

キーボードの配列はそのままタイプライターの配列だった訳で、タイプライターのキー配列はそれなりに意味があってこの配列だった訳ですが(機構上の問題で、片側のキーを連続で高速鍵打させたくなかったとか何とからしい)、今その制約は何一つ無いわけだからもっと最適化されたキー配列にすべきなんじゃないか? と、当然の疑問が発生します。

然しながらキーボードの配列は相変わらず最適化されること無くそのまま採用され続けているのは何故か? 結論から言うと、それは圧倒的に普及しているからに他なりません。

まぁ、当たり前ですね。他のPCとキーボードの配列が違ってるんじゃ、キーボードを換えるたびにキー配列に慣れなくてはなりませんし、他の人との互換性だって問題が多いでしょう。

もっと解りやすく言えば、βが画質的に優れて居たにもかかわらずVHSが主流になったように(まぁ、この規格戦争があった時代なんて記憶に無いのですが)、合理性は必ずしも重要なファクターとなりえないのです。

要は実用性さえある程度確保できるならそれで良いのです。実用上は。問題は使えるか使えないかであって最適であるか否かではないのですから。文字の表記であれば、読んで欲しい相手がそれなりに正しく解釈してくれればそれで良いのです。

そう考えるならば、「ギャル文字」使おうが「2ch語」使おうが「旧仮名遣い」使おうが「全てひらがな」使おうが「英語」使おうが「アセンブリ言語」使おうが要はそれが伝わりゃそれで良いのです。目的とする人物に届くならば。それが一般的であるかは当然処々の問題はありますが。

とは言え、出来れば読ませたい10人だけが読める書き方よりも読ませたい100人が解りやすく読める書き方の方が実用上望ましいし、読むことを期待していない100人よりも読んで欲しい10人が読める書き方の方が実用上望ましい。

まぁ、使う場所にも拠りますけど概ね人口に膾炙した用法が一般的になる訳であり、それが「漢字仮名混じり」であったり「その他の書き方」であったりする必然性は余り無いのです。単に支持者が雪ダルマ式に増えていってスタンダードになっちゃった と言うだけの事で。

なので「漢字仮名混じり」が気に入らないと言うなら「漢字仮名混じり」を排撃することではなく新たに提唱する方式で広く文章を書くなり何なりして普及させてしまえば良いのです。

ま、50年後くらいには普及してるかもしれません。何せ現代仮名遣いが普及したのって此処60年70年の事ですしね。十分有りうる話だと思いますけど。

■蛇足■

個人的に、全部ひらがな分かち書き を見て思うのは

の3点である。正直どうでも良いが。

最後の3点目はそのまんまなので捨て置くとして、最初の2点はひらがなの丸い印象とか小学生の作文の漢字の無さ振りからの連想とか言ったものがあるのかもしれない。所詮イメージ論だが。

■2005 12 03 12:56 の加筆修正■

コメントの引用より誤字を発見したので修正。修正箇所は太字。

変更前

そう考えるならば、「ギャル文字」使おうが「2ch語」使おうが「旧仮名遣い」使おうが「全てひらがな」使おうが「英語」使おうが「アセンブリ言語」使おうが要はそれがつた和りゃそれで良いのです。

変更前

そう考えるならば、「ギャル文字」使おうが「2ch語」使おうが「旧仮名遣い」使おうが「全てひらがな」使おうが「英語」使おうが「アセンブリ言語」使おうが要はそれが伝わりゃそれで良いのです。

天使が舞い降りたかもしれない

色々な形で文章を書く機会が多いのですが、私はレポートのように内容と形式がかっちりしたものでも無い限り文章を書くのに凄く時間が掛かります。ま、どうでも良いのですが。

昔やってた(まぁ、今もこそこそやってるのですが)小説製作の時も2週間で1行しか掛けない時期があったかと思えば5000字くらい3時間そこらで一気書きできる時もあります。はい。

何が違うといわれれば何とも言い難いのですが、書けない時はひたすら天使待ちモードに入ってしまう訳です。ちと久しぶりにいい感じになっているので書けるだけ書いてしまおうかな とか。

ま、よく考えたら天気のよい休日に一人家に篭ってキーボード叩いてるって凄い不健康だなぁ…とか思わなくも無いわけですが。

「動物化」ではなくトレードオフだと思う

動物化 と言う哲学用語があります。

東 浩紀さんが持ち出した用語で、大体以下のような用語であると私は解釈しました。はてなキーワードの方が正確な可能性が非常に高いので、そちらも併せて理解を。

改めてみると、タイトルからかなりすっ飛ばしてます。はい。現役哲学者に喧嘩売ってますね。ある意味。

動物化

人間と動物の差異を人間が「欲求」だけでなく「欲望」を持つ事と定義したとき、人間が「欲望」ではなく「欲求」をひたすら満たす事で「欲望」の充足をスキップする現象。人間が動物との差異を放棄する為動物化 と呼ぶ。

「欲求」が他者の存在無しに充足されるものであるのに対して、「欲望」は他者無しには満たされるもので無い渇望である。

まぁ、要するに消費社会になってしまった為に所謂「欲望」と「欲求」がトレードオフ可能になった産物の事を指しているのでしょう。非常に現代的な現象だと思います。

しかし、個人的には「欲望」と「欲求」の間に動物と人間を峻別させるだけの差異があるのか? と言われれば疑問を感じ得ないですし、欲望と言うのは単に欲求の一変形であるのではないか とも思うのです。

以下、小分けにしながら書いてみます。

1.人間と動物との差異って何だろう?

何より動物⇔人間って対比構造は、その他大勢の動物と人間が一線を画す存在であるという主張が暗にあるわけですから(要するに人間を他の動物の上位においている)。そもそも人間と動物に明確な差異があるなんてのは人間の勝手な認識であって(まぁ、実用上の問題もありますが)、機能的にそれ程の差異があるとは思えない。

他の多くの動物にも目があり耳があり手足がある。日常的に とは言え無いものの二足歩行を可能にしている動物とて居なくは無いし、道具を使う動物も居なくは無い。

知性は? と言われるかもしれないが、それを言い始めたら私達は既に「僅かながら知的な」計算機と機械とに囲まれて生活している訳で、動物と言う枠で考えないならば何も知性は特殊なことでも無い。自発的な思考は現在の計算機には不可能であるが、それは実用上そう合っては困ると言う事情(PCに「自主的に」データ消去されたらたまりません)があったり、自発的な思考を再現するには何が必要か に関する知見が不足していたり演算能力上の制限があったりするので今後これらの問題が解決されれば知的な計算機とて生み出され得るのではなかろうか と思われる。まぁ、あとは、宇宙人いるかもしれないですし。可能性ですが。


-----------蛇足開始-----------


あと、進化論上でゴキブリが3億年ほど基本構成が変化していないと言う点を挙げてゴキブリは下等な生物である とか論ずる(高等下等で生物を論じるって意味で)御仁も居ますがアレは間違いです。

ゴキブリの形態は、あれはあれである意味洗練された形なのです。勿論、ある意味でです。虫系は見てると生理的に寒気がする人なので正直あんなもの誉めそやすのもアレなのですが、人間みたいにあーでもないこーでもないと形質的に試行錯誤が必要なほど不安定ではないのですから、洗練されていると言っていいと思います。まぁ、単純に進化のベクトルが違うとも言いますが。


-----------蛇足終了-----------

ま、そんな訳で人間様も「その他大勢」の一員である事には変わりなく、人間⇔その他大勢→人間の特性を喪失する→その他大勢への転落 と言う構図は人間の思い上がりに過ぎんだろう と、そう思うのです。

2.欲望は欲求と異なるのか?

私の見解としては、欲望は他者を必要とするものの 実際には必要としているのは他者としての他者ではなくブラックボックスとしての他者なのではなかろうか? と考える。

ブラックボックス云々については6月26日付の記事「パッケージ化される社会」でも読んで頂くとして、要するは「他者」なるブラックボックスを所定の手順を用いて操作して(過程も多分大事だろう。これに関しては否定しない)、望む出力を得ることが「欲望」の実体であり、それは他の「欲求」と実質的・手順的な差異は殆ど無いのではないだろうか? と思う次第なのです。

具体性が皆無なので解りにくいと思うので例示しますと、例えば褒められたいという欲望を持つとき、勿論その欲望を充足する為には欲望を充足させてくれる何らかの他者が必要になります。要するに褒めてくれる人 のことですね。

さて、ここで褒めてくれる人 と言うのを断り無く「人」と言いましたが例えば「おめでとう!」とメッセージを返すプログラム(まぁ、ゲームのクリアメッセージみたいなものか)のようなものを 褒めてくれる人 に設定する事は不可能ではないでしょう。結局、人から「おめでとう!」と言われるのとディスプレーに「おめでとう!」と表示されるのとの違いがあるものの一応に褒められる と言う目的は達せられる訳ですから。勿論、ディスプレーが無味乾燥だとか、機械に褒められても嬉しくねーよ とかいった問題はありうる話です。

ま、そんな訳で多少苦しいですが、対象の「リアルさ」を抜きにすれば他者ってのは何も人である必要はなくほかの何かに置換できる訳です。

となると問題は投入コストです。

現実での「他者」に比べて、ゲームなどの代替物での「他者」は比較的低い投入コストでそれなりに満足のいく結果を返してくれます。しかも投入労力に対してほぼ線形で望む結果が得られるのです。

現実はどうか。投入労力に見合わない結果しかえられない事も少なくなく、しかも結果は投入労力に対して線形で無いことは明白です。(テスト前に一夜漬けして100点取れる事も、1学期間真面目に勉強していて80点しか取れない事もよくある)

と言う訳で代替物へ「欲望」を投入する事で満足することは、満足する点に於いてはそれなりに有効なトレードオフなのだろうと思います。実際、欲求のトレードオフなんて日常的に行っている事なのですし。

単純にトレードオフされうる対象に今まで不可侵だと思われていた「欲望」の領域が追加されただけであって、動物への転落 だとか 動物への合一化 とかそういった仰々しいものではない気がするのです。

あー、疲れた。

何というか久々に真面目に文章を書きなぐった気がします。

原稿用紙カウンタ曰く、大体4000文字オーバー(原稿用紙換算12枚)くらい書いたらしいので比較的書けた方ではなかろうかと。

と言う訳で真面目モードはお終い。日曜は別件の書き物しながらレポートてきとーに眺めながらぐーたらしてます。