個人の責任について思うこと

算術師です。

どうやら風邪を引いてしまったようです。

ついでに耳掻きで外耳の壁面をがりっとやってしまったらしく、耳から浸出液が…と、かなり楽しい健康状態です。

今は粗方沈静化したのですが、方から肘にかけてが妙に痛いです。



明日にでも病院行ってきます。








正しさの基準についての問題提起、議論をしてやろうと言う奇特な方は27日の記事
に引き続きコメントお願いします。

勿論、コメントから派生した議論について思うことを述べたり、感想コメントを書いたりも歓迎です。



このBlog
に便乗して立ち上げたBlogですが、オリジナルのコンテンツが軌道に乗り始めたのは非常に嬉しいところです。



…コメントに頂いた助言に倣って出張書き込みなんぞするべきかな、と思ってはいますが何処に如何な書き込みをしたのもやらと目下思案中です。アクセス・コメント共に活発なのは私の知っている範囲ではJSF.
さんとかR30
さんとか旗旗
さんな訳ですが…激しく芸風違う気もします。と言うか、皆様戦闘民族な気がします。



まぁ、私が単純に押しが弱いだけなのかもですけど穏健派として生きていこうかと思います。

思想傾向は違いますが数学屋のメガネ
さんとか現代思想の泉・社会哲学
さんとかに見習うべきところがあるのかも、と。

ちょっと衒学的ではありますがね。








さて、と。今回取り上げたいのは個人の社会的な責任です。



まぁ、何でこんな話題になったかと申しますと、先のアクセス数増加計画練ってた最中にR30さんのBlog
この記事
が目に止まりました。これについての詳しい状況説明はSNMR
さんのこの記事
を見ていただくとして…と言うと例によって身も蓋も無いので纏めますと、とある人気Blogが、突如何の告知もなく商業企画を始めたり、Blogの内容を書籍化したりと事業展開し始めてしまいそれを原因に揉めてしまった、とそんな感じです。



さて、先に紹介した2つのBlogさんでも取り上げられてますが、多数の読者の居るBlogともなると読者への影響も大きくなってしまうので、Blog主さんは個人としての行動を制約されてしまいます。Blog主さんは影響力を持つと同時にBlogの読者から行動を半ば縛られる状態にあるわけです。



この問題は、科学者は政治的な責任があるか? といった問題にも非常に近しい物があると思います。例えば、

ある科学者が居たとする。更に、この学者は新兵器(非人道的なものであるとする)を開発する技術ないしそれを支える理論を持っているとする。この学者が軍に新兵器の開発を依頼されたとき、どう返答すべきだろうか?

こう言う問題ですね。丁度大統領に原爆の開発を進言したアインシュタインの苦悩なんぞを考えながら考えると良いかもしれません。

寧ろ、そっちの方が例題として適切かもしれませんね。



個人個人は社会に依拠して生きています。ですから社会に対して影響力を行使する(或いは結果的に行使してしまう)場合には責任が生じるのではないか? また、社会に悪影響を及ぼした場合、社会的に罰されるなり批判されるなりするべきなのではないか? と、そう言うことですね。



結論を言ってしまえば、この問題は線引きできないと思います。



私たちの生きる社会は複雑な存在です。社会は影響の予測できるいくつかの例外(明らかに犯罪とみなせるものや、落ち度が明確に予測できるもの)を除いて、基本的に自分の行動に対する影響の予測が難しいものですから、これに責任を求めるのは難しいでしょう。そして、社会が恒常的であるが為に多くの人は自身のの影響力を低く見積もり気味です(だから私一人やらなくても…となるわけですね。これがモラル崩壊の遠因な気もします)。



更にいえば、社会への影響の原因は非常に見積もりにくいです。例えばBlogでの論争の火種はBlog主なのか、煽った読者なのか…正直、どちらとも言えるのが実情ですしね。多くの人は気付いたら渦中に居た、といった風では無いでしょうか?



また、何を社会に対する悪影響とするかも非常に問題です。また、社会が要求している内容が当人にとって正当であるかも実は問題だと思います。例えばこんな問題になるでしょう。

ここにある子供が居るとします。彼(彼女でも良いが、文字数少ないので彼で統一)は所謂優等生で、両親にも優等生であり続けることを期待されています。彼は優等生であり続ける為に非常な努力をしていますが、同時に優等生であり続けることに疑問を感じています。さて、彼は優等生であり続けなくてはならないのでしょうか?

こう聞かれれば大半の人はそうでは無い、と回答しそうです。まぁ、問題が凄くずれているような気もしますが。兎も角、社会の批判や要求も必ずしも本人の利益にならなかったり(批判対象の利益は考慮されないことも多いですから)、的外れだったりするわけです。



では結局どうするのか? 非常に難しいのですが、多くの場合では何が妥当であるとも定義できず、どのような影響が個人の行動から発生するか不明なので、よほどの例外が無い限り個人の判断に外野が口を出すべきではないと思います。例えどれだけ影響力があろうとも、周囲がどれだけ当人の行動がこうあるべきだと言っても、結局は個人は個人です。個人の行動は個人が吟味するほか無いと思うのです。その為にも、もっと社会的な責任とは何かについて考え議論がなされるべきではないか、と思います。



まぁ、しかし…人の行動を『かくあるべし』と言う人々に一言。あなた方が正しいと思っているその人のあるべき姿は、その人から見れば酷く理不尽な物かもしれません。








モラルについてや思想については色々議論すべきところがあると思うのですが、1つのエントリ内で複数の議論をするのは望ましくないと思われますので別の機会に。出来れば今週中に意見を提示したいところです。

まぁ、そもそも今回の問題提起が複数の問題を同時に扱った感はありますが。