差別とは何ぞや と。

さて、plummetさんのBlogコメント欄凄いことになっていた模様。

へー。投稿記事数に制限とかあったんだー、とか、そんなにコメントつくなんてうらやましいなぁ…、とかどうでもいいことはさて置いとくとして。

差別とは何ぞや、等とどうでも良いことについてつらつらと考えてみたいと思います。


まず初めに。私は時に差別的ですし、偏見込みの誤認もやらかします。

例えばこんな例。応援団を高々数時間の接触で迷惑団体と認識しています。そればかりか、団員も不快な人間ばかりであると勝手に認識を修正しています。

この例でもそうですが、要するに差別(と言うよりは寧ろ偏見)とはある認識を間違ったカテゴリに一般化してしまうこと…つまりはplummetさんの言うところである「木と森を混同すること」であるわけです。

まぁしかし、この理論は線引きが難しいです。これを拡張していってしまうと全てが許容される可能性がありますし、また面倒な結論を導き出してしまいかねないのです。

例:家畜を一方的に殺害するのは差別である。
  然るに、家畜にも人間への殺害権を付与すべきである。
  或いは、家畜の殺害を停止するべきである。

公平な立場と言う発想も、此処まで来ると正しいようで無茶苦茶です。勿論人間サイドから見れば、ですけど。これは認めがたいですよね。焼肉食ってたら牛の大群に復讐される世の中になっては世の焼肉屋さんは全部廃業です。


話が逸れましたが、要は差別を行わない・差別的な言動をしないと言うのは一種の礼儀とか社会通念の一種なのだろうと。

自分が所属しているカテゴリに不当な評価がつくと不快に感じますし、不当な扱いがなされた場合抗議はしてしかるべきです。また、そのような言動や不当な扱いがなされない為に社会が強制力を行使することはある程度まで合理的だと思います。個人的には、社会的な強制は逆差別(過剰な社会的優遇)が発生しない程度に抑えられるべきだと思います。

まぁ、とは言え何を基準に不快感を感じるかは人によりまちまちです。
例えば、東大に在籍している人に「流石東大生、頭良いね」と言ったとします。これ自体は特に差別的であるとは思えないでしょうけど、時に不快に思う人も居るでしょう。何故なら、頭の良さは本人の資質であったり努力の産物であるのであって、東大生というカテゴリに分類されるからではないのですから。自分の能力が自分以外の要素で評価されると、言い返すのは難しいですけど嬉しくないものです。

まぁ、私は東大生ではないですけど似たような例はあります。父親が妙に顔が広くて(仕事人としては)優秀なお陰で当時それなりに優等生だった私は「流石は○○さんの息子さんですね」とか昔に散々言われたものです。幼い時分にはかなり傷つきましたが、これを差別だ・偏見だ と言える程私は自信家でもなく、また押しの強い方でもありませんでした。環境要因が大きいので、自分が優秀である(少なくともある年齢まではそう信じていた)のは自分が全ての要因であるとも言えず難しかったのですが、私に対する賛辞ではなかろうなと、そう思います(無論、父に対する賛辞だったのでしょうから目的は果たされていると思いますけどね)。何せ、私が私であることに対してはなんら評価されていないわけですから。

と言うわけですので、社会的に制限可能な(つまり、充分に一般化可能な)差別と言うのは次の通りだと思います。

  1. あるカテゴリ集団に対する、不当な機会制限
  2. あるカテゴリ集団に対する、根拠の乏しい罵倒・中傷・攻撃
  3. あるカテゴリ集団に対する、過剰な機会付与(逆差別)

まぁ、一般に不快である、或いは不公平であると認識されうることなので、社会通念的にも差別被害として認識しやすかろうと そう言う発想ですが。

ともあれ、差別はいけないと言う人も反論する人を「差別主義者」とひとくくりにし易いので注意が必要です。差別を無くす為に、新たな差別をしても始まらないのですから。