いや、何で洗脳されちゃ拙いんだろう?

洗脳されたい訳ではないのだけど、試みに考えてみる。

まぁ、そりゃ一般的に見て洗脳は目的を持って特定の集団が行うものであり、反社会的な目的に用いられるからor個人を破滅させる可能性が高いからor特定個人に多数の人間の生殺与奪が握られてしまうから というのは勿論承知の上でだが。

大昔に出題した10の質問じゃないけれど、世界人口を完全に安定して(出来れば不可逆に)洗脳出来るなら犯罪抑止とか紛争の抑止はかなり簡単に出来る気がする。あと、それなりに皆幸せに生きてられるのではなかろうか? 洗脳前の本人の意思は無視されるけど、洗脳後は皆ハッピー。まぁ、洗脳って名前が問題になるならもっとソフトに「教育」とかでも良いのだけど。

まぁ、そもそも洗脳がダメな割に学校とか家とかで人殺しはいけませんとか嘘はダメとかいう風に思考を歪めて教育して反社会的な人格をある意味抹殺している訳で、それも含めて何で洗脳はダメなのだろう? と重ねて思ったりする。まぁ、得体の知れないものに強制的に思考を操作されると言うイメージが恐ろしいのだろう。実際寝てる間に頭良くなってるなら兎も角、UFOを信じるように改造されてます って言われたらそりゃ嫌な気分になるだろうしね。

懐疑的になって自分の足元ずさずさ崩しちゃうくらいなら、いっそ怪しい宗教でも信じて安定した方がいい ってので新興宗教がそれなりに持て囃されてたけど、結局は過ぎた自由は持て余すし不安なのだろう。多くの人にとっては。自由からの逃亡とは良く言ったものだ。

いや、それ以前に個人の判断力ってそんなに素晴しいだろうか? 誰か別の判断力の在る存在に判断してもらった方が効率的で楽なんじゃなかろうか?

大体、主体性だの何だの言うが、一体この世で何割の人間が完全に自立的に主体的に判断できていると言うのだろう? それこそ神話ではあるまいか。判断を生み出させたのはニュースキャスターの尤もらしい発言だったり、親近感を感じるネットの文章だったり、ある種強迫観念的な流行り廃りだったりする訳で、結局自分でなんて発想そのものがマヤカシに過ぎないのではなかろうか?

自主だの個性だの自由だの何だの言って、誰かの頭に判断力を預けるのを批判する人間は、結局どうやら自分には操り糸がついていないらしいと安堵したいだけであって、本当に操り糸がついていないかについては案外無頓着なのではなかろうか? そもそも、「自分についてると思しき操り糸を外せ」ってのが誰の思い付きだろう? 自分のものなのだろうか? 不満足なソクラテスは、自分が豚で無いことに満足を覚えて結局豚になってしまいはしないのだろうか?

もっと言うなら、自分の信念やら主義やら何やらという得体の知れないものに自ら頭預けちゃってる時点でそれは結果的に自己洗脳と大差ないのではなかろうか?

洗脳されてはいけない と囁く声は誰のものだろう? と、そんな事を考えつつ 眠りの沼へ沈んでみる。

私としては、確信犯なら頭預けようが何しようがOKな気はするのだが。結果は自己責任で としか言えないけれども。