幸せとはなんぞや とか

という訳で、予告通り幸福の薬とかいう思考実験に関して。

3種類の「幸福の薬」なる薬を渡された時に飲むのか飲まないのか という問題のようです。3種類の薬について軽く纏めるとこんな感じでしょうか。

  1. 幸福の薬A…幸福になれる薬。持続時間は1日。精神的な幸福を得ます。境遇が改善するわけでは無いので注意が必要です。
  2. 幸福の薬B…他人を不幸にできる薬。相対的に幸せになれます。効果は1日限り。
  3. 幸福の薬C…幸福になれる薬。持続時間は死ぬまで。1日だけ周りの人たちが泣いてくれるらしい。

いずれの薬も用法用量を守り、使いすぎ頼りすぎに注意しましょう。

まぁ、現実的にはこんな感じでしょうか。

  1. 抗不安薬か抗欝剤?
  2. いたずら代理人
  3. 塩化カリウム静脈注射?

で、身も蓋もなく検討してみます。

1は身体依存性がないとしても普通に考えたら精神依存性がかなり高いはずなので却下です。それこそ用法用量守る自信が怪しいです。現実問題、身体依存性とか幻覚作用がなくても麻薬に近しいものでしょうし。

2は薬なんか使うよりどうやって軽く不幸にしてやろうかとあれこれ思い巡らすのが楽しいので、そんなの却下です。安直ですし。不幸になる対象と不幸になる度合いが薬程度で制御できるとも思えないですし、本格的な不幸だと、人の思考を拾い込みやすい性質なので一緒に欝になりかねませんし。

3は…自殺のお供には良さそうです。ただし、それだけです。昔に生死観について語った事もありますが、自殺は行き飽いた時の清算手段か、どうにもならないときの最終手段だと思っているので幸福を追い求めての死ってのは無いと判断しています。第一、死んだ後なんて知覚できないのだから泣いてくれようが知ったことではないですし、一瞬の恍惚を得るだけなら1.の薬で十分ですしね…。生きるのが大事とは言いませんが、死んだ後なんてあるか判らない物当てにするのは趣味じゃないですから。

結局幸福なんて、fer-matさん記事じゃないですけど脳内で勝手に物事に幸福って色を塗ってそれを眺めて脳内麻薬垂れ流してるのが実際なので、誰が何に幸せ見出そうと知ったこっちゃありません。ま、そんなのだから幸福でも不幸でも「結局認識なんだよなぁ…」と、変に悟った方向で醒めてしまうのでしょう。

よく幸せの条件に金とか地位とか学歴とか恋人の有無とか挙げる人が居ますけど、私に言わせればそんなものは手段であって目的では無い*1ので、そのようなものを持っているからと言って幸せではないでしょう。もし仮にそういう社会的(?)なステータスが幸福感を惹起させる事があるとすれば、比較対照を見ての優越感を得ての話だと思うのです。

例えば、ブランド物を買って悦に浸る頭の軽い人達*2にとっては、比較対照とはまだそれを持ってない人たちであったり同じように頭の軽い同類であったりはたまたそれを買うまでの自分であったりする訳です。それらの比較対象にたいして、内心で比較したり自慢したり見せ付けたりして悦に浸るわけです。

さて、ここで大事なのは、比較することが主であり比較の材料は従であるということです。

つまりこれは、言ってしまえば世間で言う「ステータス=幸福」を唱える人たち*3は結局は比較から来る優越感が幸せの源泉であると主張していることになります。

まぁ、それで脳内麻薬常時垂れ流せるならそれはそれで幸せなのですが…比較1回で垂れ流せる脳内麻薬なんて限りがありますし、また勝者以上に多数の敗者(仮想的なものも含む)を生むこのシステム*4な訳ですし、正直生産される幸福の量の何倍か量の不幸をばら撒くものです。

では世間で最近持て囃されているような気もする*5自己実現なる単語で実現される幸福と言うのはどうかと言えば、結局比較対象が世間様から「今の自分」か「何もしなかったらそうなったであろう自分」へとスイッチしただけで本質的には同質でしょう*6

言ってしまえば「あのかわいそうな人たちに比べて私は何て恵まれてるんだろう」ってのがこの種の比較での幸せの実体な訳ですね。

こんな状態なら「数式眺めてると脳内麻薬が垂れ流されて大変だ」って方が健康的です。何しろ積極的に不幸を生み出している訳ではないですから。

私にとっての幸せとは何か…即答できれば良いのですが、どうも幸福も不幸も色塗りだと見ている人間な所為か強烈な色彩には抵抗感があるようです。とは言いつつ、社会的に仕込まれてたり家出叩き込まれてたりする所為でステータスを取得しなくてはならないのではないかと焦燥したり、そんなことに拘っている自分に落胆したりと複雑なのですが。

取り敢えず、文章書いてるのは比較的脳内麻薬垂れ流せる作業なのだろうなぁ とか。

何だかんだで纏め切れて無い印象があるので続くかもしれません。

■2006 02 17 04:30 の追記事項■

こういうことを書くと、私が格差社会とか競争とかを忌避する平等志向社会主義人間みたいな風に思われてしまうのですが…平等志向とかどうでもいいです私は。能力があるならば評価されて然るべきだと思います。

寧ろ競争社会でステータスが幸福の源泉だと認識している割合が多いと、格差社会で成功する人種の多くが成功する為の努力をしてきている人間になってしまいかねず競争が生産性を高める機能を失う可能性が高いのではないか と思っての発言です*7

■2006 02 17 04:50 の加筆修正■

時間順序を明らかにする為、追記 を 2006 02 17 04:30 の追記へと変更。

■2006 02 17 04:52 の追記事項■

結局比較によって幸福を得るというのは、不平豚の境涯に自らを置く事に相違ないのだろう。不平豚から卒業するのは難しいようである*8

■2006 02 17 04:59 の加筆修正■

レイアウトの都合により字数を揃える為、17日付の全ての追記表示を

■2006 02 17 HH:MM の追記■

から

■2006 02 17 HH:MM の追記事項■

へと変更。

*1:勿論恋人が手段である と言いたいわけではない。手に入れるまでの過程は手段なのかもしれない…無論、その手段が目的って場合は往々にしてよくあるようだけれど。

*2:そのものに対する知識も何も無いのに、「ブランドだから」と言った理由で大金叩いて買い物をし、挙句自慢する人たちのこと。言い換えれば品物を買うのではなく、ステータスを買っている人達のことである。

*3:実は、そう言うことを主張してる人の方が少ないが、如何せん声が大きいのでそう言う人が世の主流のような気がしてくるのだろう。主張内容が一般に受け入れられている内容だけに主張者は性質が悪い。彼らは自覚は無いが「わかっていないひと」を説教したり折伏したりすることに優越感を感じているのだろう。自覚がある場合はかなりいい性格していると思う。

*4:「高学歴だって人間が出来てなきゃ…」みたいなことを言う人の何割かは、自分が優位に立ちたいが為に比較する場所を学歴から、他の指標(この場合人間性)に変えて優位を確保しようとしている訳である。尤も、そうやって比較しようとしているあたり既に「比較すること」に囚われてしまっているので人間として出来ているかと聞かれれば疑問だろう。

*5:就活セミナーとかすると結構聞かされる単語だと思う。

*6:どっちかと言えば、社会がステータスを乱発しすぎて担保していけなくなったので今度からステータスの発行元は各自でお願いします と言っているのに近い印象はある。

*7:具体的に喩えれば、学問への興味ではなく受験に受かる為の努力をしてきた人種ばかりだと大学は学問的に退屈な空間になるようなもの。

*8:不平豚の引用を読み返して思ったのだが、この記事の内容こそが不平豚の呟きのようだ。自ら要らないことを立証していて笑える