批判しておこう

ねこになりたい。 - 「何でもかんでも写真に撮りたがる無神経な人」

正直思考が虐殺モードなまま人を批判すると非難どころか罵倒になりがちで危険なのだけれど言及してみたくなった。釣られてみるとも言う。

まず第一点。正直、自身が人を貶すことに対して無神経である以上、人の無神経さをあげつらうには難があるだろう*1。主張が正しければどのような誹謗中傷をしても承認される という発想は危険である。そもそも、主張が正しいかといわれれば、それも怪しいが。そもそもシャッター音如きがなんだというのだ と言う見解を納得させるだけの材料がない。

たとえば、不快感を喚起させたものがシャッターの音ではなく、隣の客の不器用なテーブルマナーであったらどうだろう? ナイフをガチャガチャとしすぎる とか、スープを音を立てて啜っていた とか、間違い塗れの薀蓄をととうとうと垂れ流していた とか、ワインの飲み方がなってない とかであっても同意できるだろうか?

シャッターの音がどれだけ本人に失望を喚起したかは本人にしか知ることができない以上、まずはそれを粛々と語るべきである。共感を勝ち得たいならば、結果的に自分を悪人に仕立てることは上策ではない。

何より悪意を垂れ流すならば、自覚的であることが望ましい。不用意な悪意は意図しない結果を招きやすいものである。

第二点。見知らぬ人物を蒸し返して批判するくらいなら、その場で当人に異議申し立てしたらどうなのだろう? 内心に非難を飲み込んだままやり過ごしたとすれば、異議申し立ては果たして正当性を担保されうるのだろうか? それほど不快なら、何か異議申し立てをしたならばそのやりとりを開示することに積極的であったろう。

第三点。その場の幸福を追求すべしその場に没入すべし、可視化してしまうなぞ以ての外という主張も同意できない。そもそも可視化してしまうことも含めて没入し得るその場の幸福と感じているとするならば、どうなるというのだろう? 或いは没入する為の儀式だとしたら? 結局、思い出なんてものは本人しか回顧できないのだから本人が納得する形で思い出として定着させれば良いのである。ありようを誰かが偉そうに指示するものではない。無論、他者の不快感を徒にあおらない範囲で という点は重要なようだが。

取り敢えず、私は勘違いブロガーとやららしい。Blogを思考を整理したり再現したりするツールとして使っているつもりではいるが、誰かに読まれて評価されることを内心期待していたりするし、その為にリソースを無駄に投入しているのだから。

他者を無痛覚で断罪できるセンスが羨ましいと同時に、危うさを感じる。

*1:私自身がおそらく無神経な点については、多少なりに自覚済みであるので指摘の必要があるならば指摘願いたい。