人生の意味とか思わず検索しちゃう人へ

人生が無意味なら 社会に存在意味はあるのか?

このBlog的には上記エントリが凄いヒットだったせいもあって最近でもたまに「人生 意味」とか「人生 無意味」とか言った検索ワードで訪問してくださる方がいらっしゃるようです。

来て頂いて言うのも何なのですが、そういう方々は何を考えてそんな検索をしてるのかな と少し疑問なのです。と言う訳で、少し検索に至るまでの理由を考えてみました。

  1. 人生の意義に興味がある
  2. 人生の意義を知りたい
  3. 上記記事を探していた

さて、例によって上から検討して見ましょう。

1.人生の意味/意義に興味がある

非常に申し訳ないのですが、お探しのものはここにはありません。

と言うよりそもそも私個人が人生の意義なぞ存在しないと確信してる人間なので担当が違うと思います。

2.人生の意味/意義を知りたい

残念ながら、探し方を間違えていると言うほかありません。

ネットワーク上の文章なんて、殊更この手の問題に関しては「俺はこう思うんだ」と叫びたい人間が吐くだけ吐いたものに過ぎません。

3.上記記事を探していた

ご愛顧ありがとうございます。


まぁ、冗談はともあれ上でも垂れ流したとおり実用上の問題から権威的なものを意味体系に導入しないとフレーム問題にぶち当たってしまう人間の一員としては、やはり人生の意義やら意味やらは気になって仕方ないものなのかもしれません。

でも、意味とか意義なんて恣意的なものなんですよ。

意味は便宜上生成されるものなので、人生に意味がある とうのは本質的には人生には意義があるとほぼ等価と見做してよいと思うのですが…意義があるとするならば、それは何者かの目的を達成する為 ということになります。

ここで言う目的の主体は誰でしょう?

社会や会社や神や国家の目的の為 とか言うなら社会や国家が生まれる以前の人間には生きる意義がなかったことになります。まるで『神曲』の世界観*1ですね。

一切の超越者の概念も人が生み出している以上、それは目的の主体にはなり得ないのではないか と思います。無論、それの目的を個人の目的に据えるのは好きにすればいいと思いますが。

さて、今度は私たち自身が目的の主体だとすれば、その問いかけが無意味であることになります。意義なんて好き勝手に生成してればいいのですから。好きに生きればいいんですから。

結局のところ、私の口からは意義なんぞ考えずに好きに生きれば? としか言えません。

人生の意義を探しに来た皆さんごめんなさい。もっと有意義なものを探す糧としてこの場を利用するか、或いは失望して下さっていただければ と思います。

*1:キリスト教以前の人間は容赦なく地獄へ落とされたりしている。