形而上的何かへの回帰

結局いつか書いたとおり、一切の形而上の概念*1は人間が生み出した便宜上の存在に過ぎません。

無論、だから価値が無いという訳ではなく*2、単純にそういう存在に過ぎないということです。我々は存在の根本からその恩恵に浸っているわけですし、それらなしに生きることは不可能でしょう。記号を捨て去れば、その時点で我々は思考をすることが出来なくなります。それくらい記号には当然のように依存しているのです。

何といっても、文字をはじめとする記号は非常に強力なツールです。勿論文字(自然言語)が有効なツールであるのはそのライブラリである語彙や、そのほぼ全ての現象を表現可能*3な強力な表現力や、支援環境である入力・出力環境や、相互導入を容易にする文法の整備や その他諸々の文字を使いやすくする為の改良が営々とされてきたからに他なりません*4。それらの整備が未熟な古代から営々と放棄されずに手を入れ続けられのは文字/記号を除いて我々にフレーミング問題を回避する手段を持たなかったからと言えるかもしれません。

まぁ、このBlogすら記号に則って製作され記号に則って送信され記号に則って表示され記号に則って表示され記号に則って解釈されている有様ですから、記号を放棄することは多分不可能だろうな と思います。寧ろ、言語に拠らない意思疎通と俗に言われているのは記号化の程度が粗い*5だけで結局は何某かの記号化を経なければ自己を含めた相手への意思の疎通は不可能なのではないかと思います。

しかし、どんなに有用であろうが仮構です。便宜上そういう風になっている と言うだけのことなのです。

となれば正当性について懐疑の念もあるでしょうが、結局のところ私たちの機能的な限界から全てを懐疑する行為の行き着く先は発狂*6か問題の回避や隠蔽*7となります。

と言う訳で、結局私たちは発狂を回避するために形而上の何かを設定しなくてはなりません*8。例えばそれは神であり、例えばそれは何かの教えであり、例えばそれは人間の理性であり、例えばそれは世界そのものであり、例えばそれは法であったりするわけですが、重要なのはそれは実用上の問題からそう定義してみた だけであってそれ以上の意味はないということです。

一切の意味も権威も実用上の必要から生み出されてきただけであり、言うなればそれは非実体なのです*9。しかし同時に、私たちは実用上の問題からそれに立脚しなくてはならないのです。

*1:いや、そもそも形而下ですら人間が便宜的にそう見做しているだけのものは多い

*2:価値というのもそもそも形而上の何かではあるが、この際面倒なので追及しない

*3:実際そうであるかは検証できないくらいには協力に表現可能である

*4:あまりに営々と行われすぎて、長年物理計算分野がFortranを手放さなかったように放棄しようと言う試みすら放棄されている気がする。まぁ、最近は物理計算もCへの移行が進んでいるようだが。

*5:言語になってない とか、理解が難しい とか、理解過程が非言語に隠蔽されている とか

*6:記号の世界から投げ出されること。つまりはフレーム問題にぶち当たって思考機械として機能しなくなる

*7:我思う故に我あり とか、外部権威を援用するとか、そんなことは知らないと開き直るとかする

*8:そもそも記号自体が形而上の存在なのだけれど

*9:無論、形而上の存在なのだから非実体なのは当たり前だが