「本当の」とは何なのだろう

本当に というフレーズは結構日常的に使われる(?)フレーズだと思いますが、案外その含意のあるものです。

例えば

本当のことを教えて

と言えば、話者は話題になってる内容が本当ではないのではないか と疑問を抱えていることになります。要するに話題の事項は話者にとって事実ではない と、そういうことになるでしょう。

では、次の例だとどうでしょう?

私には本当の友達なんていない

例が寂しいのはさて置いといて。

こう言うなら、発話者にとって周りにいる人物は全員友達としての要件を満たしていない または「本当の友達」なる条件を満たしていない ということになるとおもいます。まぁ、一人も友達がいない人は「友達なんていない」と言うでしょうから、少なくとも発話者は友達らしき人物が一人ないし複数人いることにはなるでしょう。

とすれば、あとは自動的に 理想的な と言う意味合いでの「本当の」友達ではないがこの発言の意図になると見て良いでしょう。

この手の発言は発言時点で理想と現実と願望とが境界不明な形に混合されてしまいがちです。更に言えば、さも理想的な友人がこの世にそしてありふれた形で実在しており、にも関わらず自分にはそんな友人がいない と、そんな風に自分を悲劇の主人公であるかのように言いがちなことは少し考えるべきかもしれません。

同様の混合は、以下の例なんかでも顕著でしょう。

こんなの本当の私じゃない

こうなるともうダメです。

本当の自分 と言うか観測できない自己自身*1の不十分な観測データからこれまた不十分もいいところの「本当の」私像と比較してしまっているのですから。

自分自身なんて自分自身が理解している訳でもないですし、また完全に理解することは不可能に近い*2のですから、この発言をすることで何か解らないけれどこれは望ましくない と言うのを掘り下げることなく本当でない偽者であると言い切ることで当座の問題解決を図っている と言えるかもしれません。とすれば、実は「本当の自分」なるものは別に実在する必要はなくて、何も違和感を感じさせない自分像である ということなのでしょう。

確認不能の本当の自分なるものを持ち出しさえすれば違和感も劣等感も全部それと観測との落差に押し込めるのですから、非常に便利なフレーズであることは間違いないでしょう。要するに、「何となく違うんだよ! 何が違うかわかんないんだけどダメダメなんだ!」と難癖つけてるのと変わらない訳で、非常に安易です。

あるのかどうかわかりにくい「本当の」を用いそうな時には、何処が問題なのかを少し見てみる方が良いかもしれません。

*1:眼球は眼球自身を見ることは出来ない。鏡を使えば見ることは出来るかもしれないが、常に鏡を持ち歩くのは難しいし現実的ではない。

*2:多分原理的には無理だろう。