何処から何処までが私なのか

例えば今しがた切った爪は私の一部だったことになるのだけれど、それは今も私なのだろうか。

例えば去年の私はわたしだった何かだけれど、それは私なのだろうか。

例えば明日の私は今の私とかなり相関性は高そうだけれど、それは私なのだろうか。

例えば今正に吸い込もうとしている空気はまだ私でない気がするけれど、実はそれは私だったりはしないのだろうか。

そして今この記事書いている私を私だと思ってる何者かは、果たして本当に私なのだろうか。私以外の何者かが私であるという幻想を信じ込まされているのではないだろうか。

そもそも境界がある、ということ自体が疑惑の対象だろう。空と海との境界はしっかりした境界があるように見えるけれど、ミクロスケールに拡大していけば大気圏と宇宙との連続的で曖昧な境界と本質的には等しいのだし、人間と外界・個人と他者の境界も実は不連続ではないのかもしれない。

その考えの延長なら実は吸い込む前の空気は実は私だし、切った爪とその成れの果ては私だし昨年の私も明日の私もきっと私だろう。私は日々私を取り入れ、私を撒き散らしていることになる。

では、この文を読んでいるあなたは私だろうか?

先ほどまでの考えの延長なら、あなたは私である。確かに私の意志は及ばないが、あなたは私なのである。丁度私が私の脳や心臓を直接操れないように、私はあなたを間接的にしか操れないというだけなのだ。

いや、ともすれば忘れがちだが、私たちは自身の手足を手足とするのに年単位での修練を必要としたし、意思自身を意思のままに操ることすらできていない。とすれば私の意志の及ぶ度合いなぞ程度問題でしかないだろうし、単にあなたが私の意に背くとしてもそれはあなたを手足とするための修練が不足なのだろう。

と、独我論を展開してみるのはこの程度にして今度は逆に。

あなたは勿論私ではない。

切った爪はもう私ではない。去年の私は今の私の前駆体であって今の私ではないし、今この時点で存在してすらいない明日の私なんて概念上の虚像に過ぎない。吸い込もうとしている空気なんて私ではないから取り入れられるのであって、当然私ではない。

では今この記事を書いている私は私なのか。これも違う。あくまでここで見た私は私が私だったものを観測した像であって観測している私ではない。

私から一切の外部性を切り外していけば、私は何処にも居なくなってしまう。今度は観測されなければ確率の霧になってしまう*1量子力学よろしく、観測から切り離された私は居るのだか居ないのだかわからない何物かになってしまう。

観測されなければ私は私を維持できないのだから、私は私自身の観測も含めて外部世界からの価値保障により担保されていると言えるだろう。もっと有体に言えば外部世界が私という幻像を生成しているのかもしれない。

正味自己不在な思想を以って自己肯定(と言うか自己に対する一切の判断停止)は可能だろうけれど、容易に自己否定につながるので実用の上では非常に危うい。かといって独我論を前面に押し出すのは自分で自分の言うことを聞かない領域を増加させていくことになるのでそれも実用上非常に危うい。

何しろ大多数の人間が自分は自分だと思っているし他人は他人だと思っているのだから。

そう考えるなら正直独我論と自己不在のどちらが正解 と言う訳でもないし、多分実用上は他者との界面にこそ自己はあるのだだからコミュニケーション大事だよね みたいな事を言うのが無難で望ましいのだろう。対外的には。

はて、対外的に…外とは何処のことなのだろう…。

ま、自己不在を徹底して悟り開いたり、独我論を腹に抱えながら自分の言うことを聞く自分の範囲を広げるのに徹するのは非常に意味格好いいのだけれど。

*1:あくまでコペンハーゲン解釈では。多世界解釈ならそれはそれで世界ごと希釈されてしまう訳だが。希釈されること自体は変わらないのでこの場合どうでも良いともいえるかもしれない。