人生はまやかしだと思うんだけどなぁ…

未だにこんな昔の記事が参照されてるのか…と、妙な感慨に浸ってみる。

人生は間違いなくまやかしだと思います。

まやかしでない という人は、

人生はまやかしでない、というまやかし

を無自覚無批判に受け入れてる可能性はあるなぁ、と思うのですが。

ま、本人それでHappyなんだからそれでいいじゃんと言われたらそれまで*1なんですけど、それについては今は議論しない方向で話を進めることにします。

さて、まやかしでない と主張する人は以下のいずれかを主張する必要があると思います。

  1. まやかしでない人生が存在する
    • つまり、まやかしの人生とそうでない人生がある
  2. 人生はまやかしにはなりえない
    • 全て本物の人生

では、順に議論してみます。

1.まやかしでない人生が存在する

まぁ、まやかしの人生の存在も認めてしまってるのでこれって実際どうなの? という気はしますが気にせずに。

さて、個人的な感想を言わせて貰えば、この『まやかしでない人生』というのはかなり胡散臭いです。どれくらい胡散臭いかと言えば『本当の自分』くらいには胡散臭いでしょう。

つまり、本来の性質としてのまやかし云々以前に、まやかしであると不都合であるが故にまやかしでないと強弁している可能性はどうしても拭えません。或いは、自分にとって不都合な(or道徳的観点から望ましくない*2。)人生のあり方を括弧書きでまやかしと言い張るためにまやかしなる概念を持ち出しているのではないか とさえ思います。

人生は肯定されてしかるべきものなので、まやかしなどと言うネガティブなイメージの単語はそぐわないと主張しているようなものかもしれません。

それはさておき。

まやかしでない人生が存在するとすれば、何らかの基準で人生のまやかし具合を判別できるかと思います。

とは言え、それでは『まやかしの人生』を以下のように定義したと言ってるのと同義な訳ですからそんなもの何とでも言えます。それこそ、私はこう定義した。この定義に則れば、これはまやかしであるとかそうでないとか言ってるだけですから、これが一般だとか世の真理だとか主張するのはおかしいのではないかと思います。それは既に宗教の問題であって議論不能です。

まぁ、恣意を容れずにまやかしか否かを規定することはそれなりに価値があるのでしょうけれど、『人生はまやかしでない』と言う議論に於いては、多くの場合で一般論でなくては意味がないかと思います。そんな訳で混在すると仮定するならばこの議論は成り立ち得ないでしょう。

「こういう定義で考えるとこうだけど、別の定義で考えるとこうだよね」くらいの議論が、議論としては限界だと思います。無論、これが無意味だとは思わないので好きにやって貰えればそれでいいのですが。それ以上分け入っちゃうともう宗教なんで異端審問とか勝手にやってください*3

ま、お前の個人的な感想をさも世の普遍の真理だとか知った風に言ってんじゃねーよくだらねぇ と、そんなところですか。

2.人生はまやかしにはなりえない

要するに全てはまやかしでないのでまやかしの人生なんてないんだよ、とそんな議論を行うパターンです。言い換えれば、全ては無条件に人生に組み入れられるので本物である ということでしょうか。

これに関しては反証のしようがないです。

何しろ根拠も妥当性も検証可能性もゼロですから。

逆に、全ては何ら無条件にまやかしでないと言い張れる根拠がないのでやっぱりまやかしが入ってるじゃん と言い張れば逆が言えてしまいます。

知りえないことを根拠に知りえないことを言わざるを得ないわけです。さながら『未来は既定なのか』といった議論をするように*4

さて、困ったことにどちらも主張できることが判明してしまいました。正しいと言うことも、正しくもないということも、どちらも等しく反証も証明も出来ないことが判ってしまったのですから片方が正しくて片方が間違ってるとは言えない状態になってしまいました。

結局、どちらかを信じ込むのが最早宗教に入ってることが明らかになっただけでどちらを信じるのもそれはそれで問題があるし、どちらも怪しいと思うのさえ実は宗教なのではないかと言われればそれまでな訳です。

個人的には、1.の後半のような恣意の議論がより発生しやすい分、まやかし説を支持したいのですがそれだって何か恣意的な議論が恐らく潜んでいるでしょう。

と言うか、自分自身多分まやかしでない人生ってのを生きてない自信があるので人生が等しくまやかしでなくては困るんだろうなぁ…。

結局議論を避けた

ま、本人それでHappyなんだからそれでいいじゃん何か問題あるの?

と言う話について議論せざるを得ないでしょう。

これ、正直個人的にはそれで問題ない(と言うか問題があるないとか議論できない*5。)のですが、敢えて言うなら個人的にはHappyの基準とか強要されても「そうですか」としか言えないから勘弁してくれ としか思いません。

そもそもHappyだって根拠ないのにそれを世の真理みたいに共通化して適用して議論進めるとか何とも不思議極まりない議論だと思います。

そんなもの交錯し得ないので、あなたはあなたで好きにやってください。私は私で人生はまやかし*6だと思って生きていきますから。はい。

*1:所謂頭ハッピー状態 か。ここ最近連用してる『麻薬』の概念と同じようなものだろう。

*2:道徳的な観点を持ち出すのも自分の都合ではあるので、結局は全て自分にとっての都合と言えなくはない

*3:個人的に宗教入った議論で反論されても「はぁそうですか」としか言えないし、それで火炙りだとか言われても「勝手に言っててください。あと実力行使は勘弁してください」としか言えない。平行線にならざるを得ないので交錯を強要されても困るのです。

*4:どっちの側からも主張できるけど、結局未来を私たちが知りえない以上何も証拠にできない。あと、本題を外れるが見えた未来から何かを変更できるならそれは『未来のように見えた他の何か』であった可能性があるし、変更できないとしても『未来のような何か』が永遠に未来を示し続けることを証明することは不可能なのでやっぱり証明できないことにはなる。

*5:道徳論者は道徳ベースでHappyでOKだし、快楽原理主義者はそれはそれでHappyなんだからOKじゃないかと言われればそれまでではある

*6:少なくともまやかしを含む と言い換えても良い