人生に意味はあるか? について再考してみる

大昔に書いた人生無意味論及び社会無意味論を自分なりに総括してみる。とは言え、言うべき事は粗方言っているので補足説明になるのだろうかと思う。

「人生に意味はあるか?」という問題を考えるとき、議論を紛糾させる原因になるのが「意味」という言葉の多義性だろう。軽く辞書を引くだけでこれだけの語義がある。

  1. 言葉・記号などで表現され、また理解される一定の内容。
  2. ある表現・作品・行為にこめられた内容・意図・理由・目的・気持ちなど。
  3. 物事がある脈絡の中でもつ価値。重要性。意義。
  4. 表現によって暗示的にほのめかされる深い味わい。含蓄。
  5. ある表現・行為・物事などのもつ内容を表すこと。

三省堂 大辞林より抜粋引用

1.での意味は辞書的意味なのでこの場合「人生とはどういう意味か?」という問いはあったとしても「人生に意味はあるか?」という問い自体がナンセンスになる。文字で表現されているのだから表現される内容があるのは当然だからである。

2.での意味はどちらかと言えば問いを「人生に意義はあるか?」「人生に理由はあるか?」と読み替えて主張すべきだろう。定義が曖昧になってしまって議論が分散してしまい、何を主張しているのかわからなくなってしまいがちである。

過去の記事では、この解釈を元に「人生には意味がある」と主張することの問題点を示したつもりである。意義や意図自体概ね恣意的なものなので*1、各人が都合の良いように意義や理由を見出せばよい という主張に変わりはないつもりである。

3.での意味では背景に置かれる脈絡/文脈を明らかにしなくてはならない。貨幣についての議論を抜きに紙幣について語るのが滑稽なように、人生が置かれている文脈*2を明らかにせず語るのはお笑い種である。また、人生についての暗黙の文脈を自明の文脈として語るのは危険である。場合によっては、本人だけが自明だと思っている文脈を暗黙のうちに文脈として採用して語られる事もあるがそれは最早議論ではない*3

定義3.を基にした問い「人生に意味はあるか?」では、ある文脈上では人生には価値があるかどうか と言うことを問題にしているのである。つまり、これは別の文脈では全く逆の結論が出されることに関しては何も保証できていない。また、そもそも文脈の設定自体が恣意であるので「人生の意味」も恣意的に扱われている傾向があることは否定できないと思われる。

4.での意味では「人が生きる ということはどのような含意があるか?」という問いは成立するだろうが、定義1.と同様「人生に意味はあるか?」と言う問いから掛け離れてしまうためナンセンスであると思われる。

5.での意味では「人が生きる ということはどのようなことを示すのか?」という問いは成立するだろう。しかし定義1.4.同様の議論のためナンセンスであると考える。

人生の意味とやらを求めている人は自分が求めているものが何物であるかを検討した上で意味の追求をして頂ければと思います。また、他の人がどのような意味づけを人生に対してしていたとしても寛容であって欲しいのです。「人生はこうあるべきだ! そう思わない奴なんてどうかしてる」と言った主張は原理主義の主張だと言っても言い過ぎにはならないでしょう。

*1:何らかの文脈や権威を必要とする時点で文脈や権威からの要請が含まれる可能性は高い。そもそも意図がなくてはならないという主張がおかしいのではないかと思われる。

*2:此処では背景とする思想や状況/経緯を文脈と呼ぶことにする。どちらかと言えばコンテキストというべきかも知れない。

*3:この点に関しては過去の記事にも同様の傾向が見える為要反省である。