何かの為に生きるのも素敵だと思いますよ?

人生論語ろうと思ったのですが、昨日は風呂敷を広げるだけで終ってしまったので続きです。

取り敢えず、表組再登場。

 名称  機能  具体例 
 外部層  外界  世界そのもの 
 物理層  身体入出力  手足・視聴覚 
 感覚層  感覚の統合  視覚映像・音声 
 概念層  意味の付加  言語の認識 
 認識層  判断の付加  価値判断・思考 

余りにありきたりなので各階層についての言及はしない方向でいきましょう。表の目的は、こんな用語を勝手に作って話を進めますよ と宣言することなので。

さて、自己に関する議論の一つに何処からが自己か?というのがあります。代表的な意見を上の表に準拠して述べるなら外界からが自己であるとか、外界との境界からが自己であるとか、はたまた物理層と感覚層の中間くらいからが自己であるとか、はたまたこの図式自体が大間違いだ とかいった風でしょうか。

で、私はどう考えるかと言えば、外部層と物理層の中間くらいに自己と世界の境界線がありそうだなと考えています。実はこの辺は曖昧な境界なのかもしれないですけれど。

自己は外部無しには多分誕生しません。格差がどうこうという問題もありますが、情報を処理する組織としての脳を機能させるには、大量の入力情報と物理的な資源供給が必要となるのですから。

といった事を言い出すと、何故か「私達は世界(社会)に依拠してるのだから、私達は世界に対して貢献すべきだ。少なくとも迷惑をかけるようなことをしてはいけない。」なんて事を言い出す人たちが居ます*1。所謂シャカイ系って人たちですね。しかし、あれは根本的にずれています。彼らの言う世界と言うのは概念層ないしは認識層における世界であって、物理的な世界ではないのです。ついでにいえば思想信条なんて個人個人が実践すれば良いことであって、強要するようなものではないと思います。

さて、話を戻しましょう。

自己は外部から大量の情報を必要としますが、情報が物理層から認識層に移行するに従って情報は付加逆に圧縮されたり付加情報を与えられたりします。

例えば赤いという文字を見たとき、物理層である目からの情報をもとに感覚層である視覚で「赤い」という形態・色彩の映像を得ます。それを概念層で「赤い」と赤い文字で書いてあるという認識に直します*2。で、更に認識層で「うわ、これ目に悪いなぁ」とか「血の色だ」とか「何でこの文脈で赤なんだ 青でもいいじゃないか」とかいった判断を下す訳です。

認識の時点では、概念層の判断は残っていても感覚層での映像はすっ飛んでいるとは言わなくても大分遠いものになった居る*3訳であり「世界そのもの」からは大分遠ざかっているような気がします*4

ですから、結局のところ私達は世界を理解する事はできません。どれだけ近似したところで、近似だと思い込んでいるに過ぎません。私たちの認識は全て認識層や概念層のフィルタを少なからず通過したものであり、世界そのものから乖離したものと言って間違いないでしょう。勿論、全ての情報を受け取ったとしても運用に有利な情報を抽出できなくては意味がないので、情報の圧縮と意味の付与には大いに意味があるのですけれど。

私たちが見ている世界と言うのは所詮世界を見て私たちが作ったシミュラークラ*5に過ぎません。社会なんて砂上の上の楼閣の上の砂場の上に立てられた砂の城程のものです*6。同様に、私自身 というのも実は仮構なのではないかと思います。

幻想幻影を幻のままでにしておく為に、砂上の楼閣を砂上のまま固定する為に、社会正義とか愛国心とか存在理由とか生きる使命とか隣に居る誰かとかが自分が自分であることとかを持ち出す訳ですが、それも実は砂の構造物に相違ありません。それは認識の中にしかなく、認識の中からしか力を発揮しないものなのですから*7。勿論、私たちの認識の全てが砂上にあるのですから「そんなものを支えにしても虚しいだけだ、まるで砂上の楼閣ではないか」と言った所でその見解も同じく砂上にあるのですが。

無批判に砂上の建造物の中のオアシスだけ見て「ここはオアシスだ」とか言うのも非常に問題なので、せめて「周りは砂漠でこの建造物も砂の上の不安定なものだけれど」と前置きして「ここはオアシスだ」と言ってもらいたいものです。

ま、何を言っても所詮仮構の中の仮構ですけれど、私はそれを仮構であると認識してしまった*8ので、認識を実体として崇拝するのではなく認識を認識として扱った上で崇拝しても良いと思うなら崇拝する くらいのスタンスでやっていきたいところです。

何かのために生きるのもいいですけど、その何かは仮構なのですから。


■2006 04 19 04:23 の加筆修正■

RSSでのレイアウトがおかしくなるため表組をはてな表記からテーブルタグへと組み直し。

*1:そう言わなくても言いたがる人は居るけれど。

*2:この時点で既に実体からは乖離し、シミュラークラの体系に依拠している。

*3:確かに赤いといわれて色彩を想起できるかもしれないが、視覚からの赤を再現できるかといわれれば不明なところ

*4:その遠ざかってしまった隙間を埋めようとする試みが表現であり芸術であり宗教なのかもしれない。

*5:幻影、虚像の事。適切な訳語はないものかと検索かけたら昔書いた記事のブックマークがトップにきた。非常に残念。いっそ何か適当な訳語でも提案してしまおうかとも思う。

*6:仮構の上の仮構である、という意味。存在基盤が脆弱という意味ではないので注意。仮構だろうと有効機能している以上否定する要因はない。

*7:認識の中「で」しか力を発揮しないのではなく認識の中「から」しか力を発揮しない である。認識が個人の行動に少なからぬ影響を与える事は承知の上であるが、認識が主動力であるという見解には賛同しかねる。

*8:誤認なのかもしれないけれど、誤認だという認識が私の思考の中核に据えられてしまっているので最早手遅れであったり。