自由意志は何処から来るのか?

考えてみれば自由意志ってのは変なものです。どう考えてみても自由ではないのです。

例えば、以下の点で思考は外部的な圧迫に関わらず不自由です。

  1. 環境からの入力から逃れられない*1
  2. 思考本体以外の内部的な制約に引きずられる*2
  3. 何より思考媒体が言語で記号化される*3

順を追って説明してみます。

まず一つ目。結局人間与えられてきた知識・刷り込まれてきた概念からは逃れられないですし、自分で考えたつもりでも誰かの請売りだったり誰かの教えだったりするものです。自ら考えて自ら判断を下したと誰がいえるのでしょう? やはり意思は外部的な意味合いでそもそも不自由です。

続いて二つ目。人間はある程度まで感情の動物です*4。どれだけ悟りの境地に到達しようとしても、結局感情には振り回されているのです。先ほどと同じような話になりますが、例えば悟りを求める人は悟らねばならないという一事に思考を支配されていると言えると思います。また、既存の価値判断にも振り回されるのですからこれを取ってみても意思とは内部的な意味合いでも不自由であることは明らかでしょう。

最後に三つ目。思考が必ずしも言語/概念の下に行われている訳ではありませんが、少なくとも私の思考は概念ベースで運営されていると思われます*5。言語ベースで運営されるということは概念に登らない何かは勘案されないことでもあります。所謂言葉に表せない何か がそこには発生することになる訳であり、言語で表せない何かに思考を広げるのを困難にしています。

何故このようなものを自由意志 と呼ぶのか…というとそれは最早信仰の領域へと落ちてしまうでしょう。無論、意思が自由であると信仰することは大事なことです。現代的な社会を成り立たせる為には、意思は自由でなくてはならないのですから*6

例えば、結果だけを見るとこうも言えるかもしれないのです。自由な意思・自由な個人と言うのがそもそも幻想で、私達は自ら選択をしている風に勘違いしてるだけで実は選ばされているだけなのだ とも。

そもそも環境に大幅に依存して生み出されている「自由意志」なるものがそもそも怪しいのです。不自由な物理規則のなかから何処で自由になったのでしょう? 私にはよくわからないのです。

同様に生命は何処から生命か とか、細胞の集合は何処から個人なのか とか、脳細胞はどの辺から思考を生み出すのか とか興味は尽きないところなのですがひとまずこの辺で。

*1:立場とか物理的な制約とかのこと。

*2:体調とか感情的な問題とか固定観念とか。排除しきれなかったり排除すると拙かったりと問題の種である。

*3:無論、言語によらない思考が可能な人もいるのかもしれないが明確化されるに伴ってそれは言語化される

*4:無論、感情というのが共通幻想である可能性はそれなりに高いのですが、ここではその問題は排除。感情が意識を持つ存在に共通する性質なのか、人間の脳神経系の特性なのかは今後考えたい。

*5:他人の思考に限らず思考をトレースするのは概念化された航跡のみなので無論断言は出来ない。

*6:と言いつつ、教育に思想を盛り込もうとしたりマスコミを政治に利用したりするのがそれなりに行われるのは、自由意志がそれなりに優雅なやりかたで自由に改変可能であることが知られているからだと思う。教育もマスコミも言ってしまえば洗脳なのに。