無彩色の風景

7月22日付「信仰の是非」への追記。

私の数少ない信仰対象に、世界*1が世界のまま存在する というものがあります。

世界はそれ自体の意味について考えないのであって*2、意味をベースに世界が存在するのではない と。まぁ、私達の脳内にある認識の世界は意味ベースなのは確かですけれど。意味とか乖離したところに世界はただただ存在する と、私は信じてます。

なのでシュレディンガーの猫とか人間原理とか正直信じてません。思考とか認識とか観測とかってのはそんな大それたアクションではないのですよ。言ってしまえば自由落下とか、熱運動のようなものと同じ現象なのです。無論、系が非常に複雑なために有用であったり、不可解な動作をしたりしますが、それはレイヤーの問題ではなく系の規模と複雑性の問題なのです。例えるならば、ソースコードとバイナリデータのようなものです。どちらがどちらに該当するのか? と言われるとどちらにどちらを当てはめても良い感じはしますが、要はどちらも元は01の羅列であることには変わらないのですから。

観測は世界を分断するナイフではなく、所詮虫眼鏡なのです。見ることによって世界を変えてしまうかもしれないけれど、見なかったことで世界が未確定の灰色になってしまう訳ではないのです。世界は世界としてきっと厳然と存在します。我々の意図何ざお構いなしに。

私達は灰色無彩色の世界に意味を与えることで多くを得ていますが、世界にはそもそも意味はないのです。ですからこれが生きるべき正しい姿だ! とか、これが正しい世界のあり方だ! とか言うのは愚かしい所作なのです*3

意味付けは確かに素晴らしい魔法です。正に0を1にした魔法と言ってもいいかもしれません。寧ろNullを0or1にしたってのが正しいのかもしれない。しかし、私達はその魔法に溺れてしまった為に、世界とは1の集合体だと錯覚してしまっているのです。

そんな訳で、どうも見解を押し付けるのが好きな人たちを見ると、少し羨ましくなってしまうのです。レイヤ上のレイヤが実体だと信仰できてるなんて羨ましい。まだ魔法が解けていないなんて と。

*1:ここでの世界とは、以前に述べたとおり人間の手の及ぶ範囲と及ばない範囲の総体のこと。少なくとも社会とか国家とか地球とかそういった区分ではないものを示します。

*2:考えたところでそれは我々には預かり知らないところにあるので考えません。観測できないので。

*3:疑わずにすむなら、この愚かしさはとても有用なのだけれど。そして大概この手の人が主張するときには世界はサブセットに転落している。